高桑和巳『哲学で抵抗する』を読んだので感想。
著者はジョルジュ・アガンベンやミシェル・フーコーの翻訳で知られる哲学者。本書の内容もそうした錚々たる哲学者をひいて…ということを想起したのだが(とりわけフーコーは「抵抗」というテーマとかなり親和的にも思えるし)、そんなことはなく、むしろ狭い意味でのアカデミックな哲学の外側に、まさにクリティカルな哲学の営為を見出していく、そうしたタイプの入門書だった。
その意味で、ぱっと思いつく似たタイプの本としては、鷲田清一『哲学の使い方』とか、(哲学ではないが)杉田敦『政治的思考』とかが想起される。専門分野でおもに書籍をものしてきた研究者にこうしたタイプの入門書を書かせるのは企画の勝利だと思うが、近年の吉見俊哉の諸著作(『東京裏返し』とか)や斎藤『人新世の資本論』などもそうなんだけど、集英社新書の近年の目利きぶりは驚きますね。
本書は、哲学を以下のように定義する。
哲学とは、概念を云々することで世界の認識を更新する知的な抵抗である。*1
ここだけ抜き出すと「云々する」の部分は収まりが悪い気もするが、本文では例示として「創造、廃棄、歪曲、流用」などがあげられている。ドゥルーズ=ガタリが哲学とは概念の創造なのだと書いたことはよく知られるしそれを踏まえたものだろうと推察するが、本書はさらに踏み込んで、それによって世界の認識を更新し、抵抗する試みなのだと説く。そうした抵抗の実践としての哲学を、映画や文学、そしてキング牧師など社会運動家の言葉に見出していく。そうした実践は、あるものにそれまでと異なった言語をまとわせることで、世界に対する認識そのものを更新しようとし、そして実際に更新したのだ。いうなれば言葉をとおした世直し、革命といっていい。
個別の例は本書を繙いていただくとして、特に印象的だったのが、ヴォネガット『スローターハウス5』の「そういうものだ。」のリフレインを読解し、そこにあるのは諦観などではなく、「本当はそういうものであっていいはずはないのだ」という反語的精神なのだとしたところ。無常観ではなくて怒りを読み込むこの解釈に、わたくしなど蒙を開かれた思いでした。
本書のような仕方で哲学を、あるいは抵抗の所作をとらえなおしたとき、そのどちらもがより身近でクリティカルなものとして実感されるようになり、それが本書の大きな効用の一つだろうと思う。はた目には屁理屈と受け止められるだけかもしれないが、それでも自分なりの仕方で現実に言葉を与え、それでもって異議申し立てしていくこと。その方法をそれぞれが洗練させていくことで、もうすこし、世の中よくなるんじゃないかという感じを抱いています。それぞれの孤独な世直しを、ささやかにやっていくこと、これですよ。
関連
ベクトルはちがいますが、白井聡『武器としての「資本論」』も本書と通じる部分はあるかも。というかマルクスの『資本論』がもっとも偉大な哲学による抵抗の実践のひとつかもしれませんわね。
*1:p.27