昔、紀有常という人がいた。いきなり実名が登場して困惑するのであった。三代に渡って天皇に仕えて栄えたけれど、その後はさっぱりで今は(貴族としては)普通以下の生活になってしまった。心が美しくて品の良いものを好み、普通より優れた人であった。貧しくなっても昔のままのおっとりした態度で世の中のこともあまり知らないのである。
その紀有常の長年連れ添った妻だんだん有常と共寝をしなくなって、尼になって、姉と一緒に寺で暮らすと言い出した。物凄く親しい妻という訳でもなかったけれど、それでも有常は妻が出て行くというのでしみじみとした思いであった。何か尼寺での生活の役に立つ贈り物をしようと思っても、貧しいので何もやれないのである。
考えあぐねて、親しい友だち、つまり昔男、現代に日本から来たおたく男に相談した。かくかくしかじかで、妻が尼になるというのですと。
手を折りてあひ見しことを数ふれば十といひつつ四つは経にけり
指を折って細かく数えて見ると、だいたい十年くらいと思っていたけど更に四年もあって十四年も妻と一緒に過ごしたのだ。
友だちのおたく男は、それはさみしいことですねと、尼寺の生活で必要になる肌着や寝具を差し入れて、歌を詠んだ。
年だにも十とて四つは経にけるをいくたび君を頼み来ぬらむ
十四年も一緒に過ごしたのなら、あなただけでなく奥さんもきっとさみしいことでしょう。(でも、宗教心に目覚めたのは良いことだと思ってください)
さて、おたく男が差し入れたものの中には、ヒートテックの下着が入っていた。現代日本から持ち込んだものの一つだが、機能性は高いものの地味なので、若い女性に贈るには不適切かとそのままになっていたのだ。尼寺は夏はよいけれど、冬になると冷えるだろうから、これから尼になるという女性には丁度よいだろうとそれを贈ることにした。
それを受け取った有常は喜んで歌を詠んだ。
これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ
これこそが天の羽衣ですね。あなたの持ち物だったのですね。有常はおたく男の友だちだったので、男が現代日本から来たことを聞いていたのでした。
有常は感謝の気持ちを表しきれなかった気がしたので、もう一首読んだ。
秋や来る露やまがふと思ふまであるは涙の降るにぞありける
急に秋が来て寒くなったので露が降りたのかと思ふほど衣が濡れてしまったのは、私の感謝の涙が降ったからです。