“The next move”は、チェスなどの「次の指し手」
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【訳文】
ヴィクターの店はとても静かで、ドアを開けると気温が下がるのが聞こえてくるようだった。バー・ストゥールには、黒いテーラー仕立ての服を着た女が座っていた。季節を考えるなら、オーロンのような合成繊維に違いない。淡緑色の飲み物を前に、翡翠の長いホルダーに差した煙草を吸っていた。神経過敏のせいか、セックスに飢えているのか、あるいは極端なダイエットの結果なのか、繊細で洗練された面立ちに張りつめた表情を浮かべていた。
二つ離れたストゥールに腰を下ろすとバーテンダーはうなずいたが、愛想笑いはなかった。
「ギムレット」と私は言った。「ビター抜きで」
彼は小さなナプキンを私の前に置き、じっと私を見ていた。「ちょっといいですか」とうれしそうな声で言った。「この前の晩、あなたとお友だちが話しているのをお聞きして、ローズ社のライムジュースを一本仕入れておいたんです。ところが、それから二人ともお見限りで、今夜たまたまその一本を開けたところなんです」
「あの友だちは街を出たんだ」私は言った。「できたらダブルでもらおうか。心遣いに感謝するよ」
バーテンダーは向こうへ行った。黒衣の女はちらっとこちらを見て、グラスに目を落とした。「このあたりでは飲む人はほとんどいない」とても静かに言ったので、最初は私に話しかけているとは気づかなかった。それから彼女は再びこちらを見た。とても大きな黒い瞳をしていた。見たこともない真っ赤な爪の色だった。しかし、客待ちの女には見えず、声にも誘うようなところは微塵もなかった。「ギムレットのことよ」
「ひとに教えてもらってね」と私は言った。
「英国人でしょう?」
「どうして?」
「ライムジュース。まるで料理人が血を流したかのような、あのひどいアンチョヴィソースをかけた煮魚と同じくらい英国風。だから『ライミー』と呼ばれるのよ。英国人のこと――魚ではなくて」
「どちらかといえばトロピカル・ドリンクだと思っていた、暑い気候の、マラヤとかそのあたりの」
「お説の通りかも」彼女はまた背を向けた。
バーテンダーが飲み物を私の前に置いた。ライムジュースが入っているため、淡い緑がかった黄色の靄のような色合いをしていた。味見してみた。甘さと切れが同居していた。黒衣の女が私を見ていた。それから彼女は自分のグラスを私に向けて掲げた。ふたりして同時に飲んだ。彼女が手にしているのも同じものだと、そのとき気づいた。
次の手は定跡だったので、やめておいた。ただそこに座っていた。「英国人じゃない」と少し間を置いて言った。「おそらく戦争中、あちらにいたんだろう。彼と時々、今のように早い時間にここに来ていた。騒がしくなる前に」
「くつろげる時間」と彼女は言った。「バーでくつろげるのは、今ごろだけ」彼女はグラスを空にした。「あなたのお友だちを知ってるかもしれない」と彼女は言った。「何ていうの? 彼の名前」
私はすぐには答えなかった。煙草に火をつけ、彼女が翡翠のホルダーから吸い殻を叩き出し、新しい煙草を差し込むのを見ていた。手を伸ばしてライターを差し出した。「レノックス」と、私は言った。
彼女は火の礼を言い、探るような一瞥をくれた。そして頷いた。「ええ、彼のことならよく知ってる。ちょっと知りすぎてるくらい」
バーテンダーが近づいてきて、私のグラスをちらりと見た。「同じのをもう二杯」と私は言った。「ブースで」
私はストゥールから降りて立ち、待っていた。彼女は誘いを拒むかもしれないし、そうでないかもしれない。特に気にはしなかった。この性的なことに過度に敏感な国では、時折、男と女がベッドルームの話を持ち出さずに会って話すことができる。これがその機会かもしれないし、彼女は単に私が誘惑しようとしているだけだと考えるかもしれない。もしそうなら、どうとでもなれだ。
彼女は躊躇したが、そう長くはなかった。黒い手袋と金色のフレームと留め金付きの黒いスウェードのバッグを手に取り、無言で角のブースまで歩いていき、座った。私は小さなテーブルの向かいに座った。
「私はマーロウ」
「私はリンダ・ローリング」彼女は落ち着いて言った。「ちょっとセンチメンタルなところがあるようね? ミスタ・マーロウ」
「こんなところへやってきてギムレットを飲んでるから? きみはどうなんだ?」
「ギムレットが好きなだけかも」
「私だってそうかもしれない。でも、ちょっと偶然がすぎるかな」
彼女は曖昧な笑みを浮かべた。エメラルドのイヤリングとエメラルドのラペルピンをつけていた。どちらも本物のように見えるのは、平らな切り口に縁を面取りしただけのカットのせいだ。バーの薄暗い光の中でも、内側から光を放っていた。
「で、あなたがその人なのね」彼女は言った。
ウェイターが飲み物を持ってきて、テーブルに置いた。彼が去るのを待って私は言った。「私はテリー・レノックスと知り合って、彼のことが気に入り、たまに酒の相手をした。それは一種のおまけのようなもので、思いがけない友情だった。彼の家に行ったこともなければ、彼の妻を知ってるわけでもない。駐車場で一度見かけはしたが」
「もっと何かあったんじゃないの?」
彼女はグラスに手を伸ばした。指には、ダイヤモンドの巣に収まったエメラルドの指輪が光っていた。その隣には、結婚していることを示す細いプラチナの指輪が輝いていた。三十代後半、それも後半に入ったばかり、と踏んだ。
「かもしれない」私は言った。「ずいぶん手を焼かされた。いまでもそうだ。きみの方は?」
彼女は肘をついて、特に何の表情もなく私を見上げた。「言ったわよね、彼のこと、よく知ってるって。彼に何が起きたとしても驚かないと思えるくらい、よく知ってた。金持ちの妻がいて、あらゆる贅沢を彼に与えていた。その見返りに彼女が求めたのは、ただ放っておいてほしいということだけだった」
「妥当な話だな」と私は言った。
「皮肉はやめて、ミスタ・マーロウ。そういう女もいる。自分ではどうしようもないの。彼だってそんな話は聞いていないというふうでもなかった。プライドを保つ必要があるなら、ドアは開いていた。殺す必要なんてなかった」
「同感だ」
彼女は背筋を伸ばし、私をじっと見つめた。唇が歪んだ。「それで彼は逃げた。もし聞いた話が本当なら、あなたが手を貸した。きっと誇りに思っているんでしょう」
「ちがうね」私は言った。「金のためにしたまでさ」
「ちっとも面白くない、ミスタ・マーロウ。正直言って、どうしてあなたとここで飲んでいるのか分からない」
「いやならよせばいいだけのことだ、ミセス・ローリング」私はグラスに手を伸ばし、中身を飲み干した。「テリーについて、私が知らないことを教えてくれるかもしれないと思ったんだ。テリー・レノックスが妻の顔を血まみれのスポンジのように殴りつけた理由について推測する気はない」
「ずいぶんあけすけに言うのね」と彼女は怒って言った。
「私の物言いが気に入らない? 私だって同じだ。もし彼がそんなことをしたと信じていたら、今ここでギムレットを飲んでたりしない」
彼女はじっと見つめた。しばらくして、ゆっくりと言った。「彼は自殺して、すべてを自白した。それ以上何がいるわけ?」
「彼は銃を持っていた」と私は言った。「メキシコなら、それだけで不安に駆られた警官が彼に弾を撃ち込む十分な理由になる。アメリカの警察官も同様の手口で殺人を犯してきた——中には、ドア越しに撃たれた例もある。思った通りに早くドアが開かなかったからと。自白については、私は見ていない」
「メキシコ警察のでっち上げよ、そうに決まってる」と彼女は辛辣に言った。
「オタトクランみたいな小さな町では、そんな器用な真似はできそうにない。自白はたぶん本物なんだろう。だけどそれが、彼の妻殺しの証拠にはならない。少なくとも私にはそう思えない。わかるのは、彼には逃げ道がなかったということだけだ。ああいう状況では、ある種の男は――弱虫だの軟弱だの感傷的だの、好きに呼べばいいが――うるさい世間の目から誰かをかばおうとするかもしれない」
「あり得ない」と彼女は言った。「些細なスキャンダルを避けるために自殺したり、わざと自分を殺させたりする人なんていない。シルヴィアはもう死んでいた。彼女の姉と父親は、自分たちで何とかやっていけるはずよ。ミスタ・マーロウ、お金があれば、いつでも自分の身は自分で守れるわ」
「オーケイ、動機については私のまちがいだ。もしかしたら、あらゆる点でまちがっているのかもしれない。さっききみは私に腹を立てた。お邪魔なら引き上げるよ。ひとりでギムレットを味わえるように」
突然、彼女は微笑んだ。「ごめんなさい。あなたは誠実なのかもしれないと思い始めているの。さっきまで、あなたが自分を正当化しようとしていると思っていた、テリーというよりも自分を。でも、どうもそうじゃないみたいね」
「そんなことは思ってもいない。私はばかな真似をして、その報いを受けた。少なくともある程度は。彼の自白のおかげで、もっとひどい目に遭わずに済んだことは否定しない。もし彼を連れ戻して裁判にかけられたら、きっと私も罪に問われていたはず。そうなったら、控え目に見ても私の稼ぎでは裁判費用は賄えなかっただろう」
「探偵免許は言うに及ばず」彼女は皮肉っぽく言った。
「かもしれない。二日酔いの警官が気まぐれで私を逮捕できた時代もあった。今は少し違う。州の免許局の委員会で審問を受ける。あの連中は市警にあまり好意的じゃないんだ」
彼女は飲み物を一口飲み、ゆっくりとこう言った。「あれこれ考えると、あれが最良の結末だと思わない? 裁判もなし、センセーショナルな見出しもなし、売らんがための誹謗中傷もなかったのだから。新聞というのは真実や公正さ、無実の人々の感情など一切顧みないから」
「さっき私がそう言わなかったか? きみはあり得ない、と言ったじゃないか」
彼女は背もたれに寄りかかり、ブースの背もたれのパッド上部の曲線に頭を預けた。「テリー・レノックスがあなたのいう目的を遂げるために自殺するというのはあり得ない。裁判がない方が関係者全員にとって良かったということはあり得ると言ってるの」
「もう一杯飲みたくなった」と言って、ウェイターに手をふった。「首筋に冷たい息がかかったような気がする。もしかして、ポッター家と関わりがあるんじゃないのか、ミセス・ローリング?」
「シルヴィア・レノックスは私の妹よ」と彼女はあっさり言った。「あなたなら知っているだろうと思ったの」
ウェイターがやってきたので、手早く注文した。ミセス・ローリングは首を振って、もう結構と言った。ウェイターが立ち去ってから、私は言った。
「ポッター親父——失礼、ミスタ・ハーラン・ポッター——がこの件について緘口令を敷いているので、テリーの妻に姉がいたことが分かっただけでも勿怪の幸いと言えるだろうな」
「大げさね。父にそんな力はないわ、ミスタ・マーロウ。それにそれほど冷たい人でもない。ただ、プライヴァシーについては極めて古風な考えを持っていることは認める。インタヴューは一切受けない、自分の新聞社であってもね。写真を撮らせることも、演説をすることもなく、移動はもっぱら車か自前のクルーを伴った飛行機で。それでも、とても人間味のある人。彼はテリーを気に入っていた。テリーは二十四時間ずっと紳士だと言ってた。パーティーに到着してから最初のカクテルを飲むまでの十五分間だけではなくね」
「最後にちょっと足をすべらせた。そのテリーがね」
ウェイターが足早に私の三杯目のギムレットを運んできた。一口味見をしてから、グラスの丸いプレートの縁に指を乗せたまま座っていた。
「テリーの死は父にとって大きな打撃だった、ミスタ・マーロウ。また皮肉のひとつも言おうと考えているのならやめておいて。父には分かってた、ある人々にとってはすべてがあまりにも都合よく見えると。父にしてみれば、テリーがただ消えてしまった方がむしろよかった。もし、テリーが助けを求めていたら、父はきっと助けていたと思うわ」
「それはどうかな、ミセス・ローリング。殺されたのは実の娘だ」
彼女はいらっとした仕種を見せ、冷たい目で私を見た。
「素っ気ない言い方になるけど、他意はないの。父はとうの昔に妹のことを見限っていた。顔を合わせてもほとんど口をきかなかった。もし父が本音を口にしていたら、今もしていないし、しようともしないだろうけど、きっとテリーのことはあなたと同じくらい疑っているはず。だけど、テリーが死んだ今となっては、それに何の意味がある? 飛行機事故や火事、高速道路の事故で死んでたかもしれない。死ぬ運命だったとしたら、妹はいい時を選んだ。もう十年もすれば、ハリウッドのパーティーで見かける、あるいは数年前までよく見られたような、セックス漬けの醜い老嬢になっていたでしょう。国際的な社交の場の残りかすよ」
突然、わけもなく腹が立った。立ち上がってブースを見渡した。隣のブースはまだ空いていた。その向こうのブースでは、男が一人で静かに新聞を読んでいた。私はどすんと腰を下ろし、グラスをどかしてテーブル越しに身を乗り出した。声を抑えるだけの分別はあった。
「いい加減にしてくれ、ミセス・ローリング、いったい私に何を信じ込ませたい? ハーラン・ポッターは人間味あふれる好人物で、政治的野心を持つ地方検事に圧力をかけて殺人事件の捜査を隠蔽し、殺人事件の幕引きを図ることなど夢にも思わないと? テリーの有罪に疑念を抱いていたにもかかわらず、真犯人が誰か明らかにするために、誰にも何一つさせなかったとでも? 自分の新聞が持つ政治力や財力、そして彼自身が何を望んでいるかを知る前に、彼の意向を推測しようと必死になる九百人の部下たちさえも利用しなかったと? 地方検事局や市警の誰一人連れずに子飼いの弁護士ひとりをメキシコに差し向けたのは、どっかのインディアンが面白半分で撃ったわけではなく、テリーが本当に自分で頭に撃ち込んだのだとお膳立てするためじゃなかったのか? ミセス・ローリング、きみの親父さんは一億ドルの資産家だ。どうやってそれを手に入れたのかは知らないが、まあ、かなり広範囲に及ぶ組織を築き上げなければ、手にはできなかっただろうことは確かだ。決してやわではない。手強くタフな男だ。今の時代にそんな金を稼ぐには、そういう人間でなければならない。それに、怪しい連中と仕事をすることもある。実際に会ったり、握手をしたりすることはないかもしれないが、彼らは末端にいて仕事をしている」
「ばかばかしい」彼女は怒って言った。「もうたくさん」
「ああ、そうだろうな。きみが聴きたくなるような音楽は作らないから。いいことを聞かせよう。テリーはシルヴィアが死んだ夜、きみの親父さんと話してる。それについてはどう思う? 親父さんは彼に何と言ったんだろう? 『メキシコへ逃げて自分で自分を撃つんだ。この件は家族だけのことにしよう。娘があばずれだったのはわかってる。どこかの酔っ払ったろくでなしがカッとなって、あの可愛い顔を喉まで叩き込んだのかもしれん。ありがちなことだ。そいつだって酔いが覚めたら後悔するさ。君はいままで見て見ぬふりをしてきた。そのつけを払うときだ。我々が望むのは、美しいポッター家の名をマウンテン・ライラックのように清らかに保つことだ。あれは体裁を取り繕うために君と結婚した。死んだ今はこれまで以上にそれを必要としている。そして、君こそがそれだ。もし君が姿を消して、そのまま姿を消したままでいられるなら、それで構わない。だが、もし見つかったら、一巻の終わり。死体置き場で会おう』」
「本当にそう思うの?」黒衣の女はドライアイスのような声で尋ねた。「父がそんなことを言うとでも?」
私は椅子の背に凭れ、面白くもなさそうに笑った。「お望みなら、台詞にもう少し磨きをかけてもいいかもしれない」
彼女は荷物をまとめ、席をすべるように移動した。「ひとつ警告しておくわ」と彼女はゆっくりと、そしてとても慎重に言った。「とても簡単な警告。もしあなたが私の父をそんな男だと思って、今私に言ったような考えを公言し続けるなら、この街でのあなたの仕事、どんな仕事であれ、あなたのキャリアは極めて短命に終わり、突然に幕が下りるようなことになりそう」
「これで揃った、ミセス・ローリング、申し分ない。その手の警告は司法当局から受けている。ギャングの手下からも受けている、金持ち連中からも。言葉はちがえど意味は同じ。手を引け。ここにギムレットを飲みに来たのはある男に頼まれたからだ。それがどうだ。まるで墓場に足を踏み入れたも同然だ」
彼女は立ち上がり軽くうなずいた。
「ギムレットを三杯、ダブルで。たぶん酔いが回ってる」
テーブルの上に多すぎる金を置いて、彼女の脇に立った。「きみだって一杯半飲んでる、ミセス・ローリング。なぜそんなに飲んだんだ? どこかの男に頼まれて? それとも自分の考えなのか。きみは少ししゃべり過ぎた」
「誰にわかるの、ミスタ・マーロウ? そんなの誰にわかるの? 何かを本当にわかっている人なんているの? カウンターのところにいる男の人が私たちを見ている。もしかして、知り合い?」
私はあたりを見回し、彼女が気づいていたことに驚いた。ドアに一番近い端の椅子に、痩せた浅黒い男が座っていた。「名前はチック・アゴスティーノ」と私は言った。「メネンデスって賭博師の用心棒だ。跳びかかってのしちまおうか」
「確かに酔ってるわね」と彼女は早口で言い、歩き始めた。私は彼女の後を追った。椅子に座っていた男はくるりと振り返り、前を見た。私は彼の横に並び、後ろに歩み寄り、両腕の下に素早く手を伸ばした。少し酔っていたのかもしれない。
彼は腹立たし気にこちらに向き直り、椅子から滑り降りた。「何しやがる」とうなった。視界の端で、彼女がドアのすぐ手前で立ち止まり、振り返っているのが見えた。
「丸腰とはね、ミスタ・アゴスティーノ? 無鉄砲すぎるぜ。もう少しで暗くなる。ひょっこりとタフな小人に出くわしでもしたらどうする?」
「失せろ!」彼は激怒して言った。
「ああ、その科白、『ニューヨーカー』からパクったな」
口は動かしたものの、からだは動かさなかった。私は彼をその場に残し、ミセス・ローリングの後を追ってドアから日覆いの下に出た。白髪の黒人運転手が駐車場係の若い男と立ち話をしていた。彼は帽子に手をやって立ち去ると、けばけばしいキャディラックのリムジンを運転して戻ってきた。彼がドアを開けると、ミセス・ローリングが乗り込んだ。彼は宝石箱の蓋を閉めるかのようにドアを閉め、車の周りを回って運転席へ収まった。
彼女は車の窓を下ろすと微かに笑みを浮かべて私を見た。
「ごきげんよう、ミスタ・マーロウ。愉しかった――でしょう?」
「派手にやり合ったが」
「あなたの方はね――ほとんど自分自身とやり合ってた」
「性分でね。おやすみなさい、ミセス・ローリング。住まいはこのあたりじゃないだろう?」
「ええ、そう。住まいはアイドルヴァレイ。湖の向こう岸。夫は医師をしてる」
「ウェイドという名の人物を知らないかな?」
彼女は眉をひそめた。「ええ、ウェイド夫妻なら知ってるけれど。どうして?」
「なぜ訊いたかといえば、アイドルヴァレイで知ってるのは彼らだけなんだ」
「そういうことね。ではあらためてごきげんよう、ミスタ・マーロウ」
彼女がシートに身をもたせると、キャディラックは優雅な音を立て、滑るように大通りを行き交う車列のなかにのみこまれていった。
振り返ると、危うくチック・アゴスティーノにぶつかりそうになった。
「あの上玉は誰だ?」と彼はうすら笑いを浮かべた。「それと、この次ふざけたまねをしたら、命は保証しない」
「誰でもいい。お前には無縁の御仁だ」と私は言った。
「オーケイ、お利口さん。ナンバーは覚えた。メンディはこういったちょっとしたことを知りたがるんだ」
車のドアが勢いよく開き、身長7フィート、幅4フィートほどの男が飛び出してきた。アゴスティーノをひと目見るや、大きく一歩踏み出し、片手で彼の喉をつかんだ。
「何度言えばわかるんだ? お前みたいなけちなチンピラが、俺が飯を食うところに出入りするんじゃない」彼は怒鳴った。
彼はアゴスティーノを揺さぶり、歩道の向こうの壁に向かって投げ飛ばした。チックは咳き込み、その場にへたり込んだ。
「この次は」と大男は怒鳴った。「まちがいなく撃ち殺す。おれは噓は言わねえ、死体で収容されるとき、おまえは銃を握っているだろう」
チックは首を振り、何も言わなかった。大男は私をちらりと見てにやりとした。「いい夜だな」と言い、ヴィクターの店へと入っていった。
チックが立ち上がり、落ち着きを取り戻すまで見ていた。「誰だ、あいつ?」と私は尋ねた。
「ビッグ・ウィリー・マグーン」と彼はかすれた声で言った。「風紀課のまぬけだ。自分はタフだと思っている」
「そうじゃないってことか?」と私は丁寧に尋ねた。
彼はうつろな目で私を見て、立ち去った。私は駐車場から車を出し、家へと向かった。ハリウッドでは何が起きてもおかしくない。本当に何でもありだ。
【解説】
第二十二章は、マーロウが久しぶりに訪れた「ヴィクターの店」で、リンダ・ローリングと初めて出会う場面。その書き出しは「ヴィクターの店はとても静かで、ドアを開けると気温が下がるのが聞こえてくるようだった」
It was so quiet in Victor's that you almost heard the temperature drop as you came in at the door
この“ the temperature”(温度)を「気温」ととるか「体温」ととるか。ちなみに、清水訳は「体温」、村上訳は「温度」、田口訳は「気温」で、最新訳である市川訳は「皮膚の温度」となっている。ひっそり閑とした開店間際のバーの空気と外気の差をチャンドラー一流の比喩で表したのだろう。ドアを開けた途端に全身で体感するのは、ドアによって隔てられていた外と内との空気の温度の差だろう。体温の方は、それから徐々に下がっていくはずだ。
黒衣の女として初登場するミセス・ローリングの姿が印象的だ。「神経過敏のせいか、セックスに飢えているのか、あるいは極端なダイエットの結果なのか、繊細で洗練された面立ちに張りつめた表情を浮かべていた」
She had that fine-drawn intense look that is sometimes neurotic, sometimes sex-hungry, and sometimes just the result of drastic dieting.
“fine-drawn intense look”というのが微妙で、“fine-drawn”は「極細に引き伸ばした、精細を極めた」の意で、文末に“drastic dieting”とある以上、痩せているのは確かだがただの痩せっぽちではなく繊細を極めた美しさを保持していなければならない。清水訳は「しずんだ魅力のある表情」、村上訳は「細部までくっきり締まった顔立ち」、田口訳は「細部の整った強い面構えの女性」、市川訳では「一分の隙もなく整った顔に浮かんでいるその表情は張り詰めていた」と、運命の女、リンダ・ローリングにそれぞれのイメージを託している。
「“A gimlet,” I said. “No bitters.”」という一行が清水訳では省かれている。顔なじみの客で、これしか頼まないのを知っていることを示すためだろうか。ギムレットというカクテルは、ジンとローズ社のライムジュースだけで作るのがほんとうで、ビターや砂糖を加えるのはまちがっている、というのがテリー・レノックス流のこだわりだった。わざわざテリーのためにヴィクターの店にやってきたマーロウが、この文句を言わないという手はない。
そのあと、バーテンダーからローズ社のライムジュースを用意していると聞いたマーロウが、レノックスのいうところの本物のギムレットを味わっていると、黒衣の女の視線を感じるのだが、そこが田口訳では「黒い服の女は私をまた見ていた。ふたりで一緒に飲んだ」となっており、二つの文の間にある“Then she lifted her own glass towards me. ”(それから彼女は自分のグラスを私に向けて掲げた)というところが抜け落ちている。女の乾杯の素振りがなかったら、“We both drank.”という具合にはいかないはずで、ここは田口氏にはめずらしいケアレスミスだろう。
“The next move was routine, so I didn't make it. I just sat there.”(次の手は定跡だったので、やめておいた。ただそこに座っていた)。“The next move”は、チェスなどの「次の指し手」のこと。マーロウの趣味のひとつがチェスであることは、よく知られている。これまでの訳者は“move”を「行動」と解釈し、「次の行動は定石だが、私は定石にしたがわなかった」(清水)、「定石どおりの行動をとるのは、好むところではない。だから私は席を移らなかった」(村上)、「男が次に取る行動はもう定石(じょうせき)みたいなものなので、私はあえて定石は打たなかった」(田口)と訳している。市川訳は「普通はそれを合図に女の隣に席を移る。だから普通じゃなくスツールを二つ空けたままにした」と、原文を離れて、読者に分かりやすく説明している。あえて「定石」を使うなら、“The next move”は「次の(差し)手」と訳したいところ。
"I'm a fellow who knew Terry Lennox, liked him, and had an occasional drink with him. It was kind of a side deal, an accidental friendship. I never went to his home or knew his wife. I saw her once in a parking lot."(私はテリー・レノックスと知り合って、彼のことが気に入り、たまに酒の相手をした。それは一種のおまけのようなもので、思いがけない友情だった。彼の家に行ったこともなければ、彼の妻を知ってるわけでもない。駐車場で一度見かけはしたが)
"So you're the man,"(で、あなたがその人なのね)と、リンダ・ローリングに訊かれたマーロウが答えたのが上記の科白。ここにはたっぷり思い入れが入っている。特に気になるのが、“ It was kind of a side deal, an accidental friendship.”という一文。“side deal”には「裏取引」という意味がある。また、“accidental”という形容詞は「偶然の」という意味だが、通常、(偶然または不慮のよくない)出来事、事故、災難、等々に使われることが多い。友情であることにちがいはないが、それによって自分には厄介事が降りかかってきた、というマーロウの複雑な心情がにじみ出た文句である。
ここを、清水訳はあっさりと「ほんとのつきあいとはいえないかもしれません」で済ませている。村上訳は「つきあいというほどのものでもない。ちょっとした偶然で知り合っただけです」、田口訳は「たまたま知り合っただけで、きちんとしたつながりがあるわけでもない」と、ひたすら「友情」という言葉を避けて言い訳につとめている。市川訳は「別に仕組んだわけじゃない。たまたま知り合い、友情が芽生えた」と、「友情」をちゃんと言葉にしている。“side deal”や“an accidental friendship”という語句には、うっすらと韜晦の匂いが感じられるが、マーロウが二人の間に友情があったことを疑ってはいない。
"Okay, bright boy. I got the license number. Mendy likes to know little things like that."(オーケイ、お利口さん。ナンバーは覚えた。メンディはこういったちょっとしたことを知りたがるんだ)
ここでいう“ license number”だが、これまでの訳では「車のナンバー」とされてきた。市川訳では「おまえの探偵許可番号」となっている。ここで唐突に私立探偵の許可証が登場することに首をひねる。辞書にも「自動車のバックナンバー」とある。チックの関心は美しい女性にあるのだから、とっさにその車のナンバーを覚えたと考える方が自然だ。
"Next time," the enormous man yelled, "I sure as hell put the blast on you, and believe me, boy, you'll be holding a gun when they pick you up."(「この次は」と大男は怒鳴った。「まちがいなく撃ち殺す。おれは噓は言わねえ、死体で収容されるとき、おまえは銃を握っているだろう」)
“pick up”には「(犯人を)逮捕する、連行する」という意味がある。なので、清水訳の「つかまるときはどうせピストルを持ってるだろうからな」をはじめ、「お前はいつか銃を手にしているところをひっつかまえられるぜ(村上訳)」、「この次はおまえが銃を手にしてるところをとっ捕まえてやるからな(田口訳)」と訳されてきた。
ところが、市川訳は「そのときおまえの死体は拳銃をしっかり握ってる、わかったか」となっている。実は、その前の方に出てくる“ put the blast on ”がくせもので、辞書には「〈米俗〉(人)をげんこつで殴る」と載っている。だから、これまでの訳は「この次はただじゃおかないぞ(清水訳)」、「次はこんな半端じゃすまんぞ(村上訳)」、「この次はこんな程度じゃすまないぞ(田口訳)」と、脅し文句で済ませている。
“blast”には 「《俗語》(〜を)撃つ、 (人を)射殺する」という意味があるので、「間違いなく鉛玉をぶち込んでやる」という市川訳も成立する。これまでの訳は“Next time”の意味を読み誤っているのではないだろうか。"I sure as hell put the blast on you, and believe me, boy, you'll be holding a gun when they pick you up."は、いつか先のことではなく、“Next time”に起きることを言っているのだと思う。だから、大男はチックを撃つつもりだから、その時は銃を肌身離さず持っていろよ、という警告を発していると読むのが正しい。「丸腰とはね」というマーロウの言葉が、ここで生きてくる仕掛けだ。
この章は、ほとんどがマーロウとリンダ・ローリングの対話に終始している。その訳し方だが、清水、村上、市川の三氏は、互いに丁寧な言葉遣いをし、ふたりの間に距離を置いているのに対し、田口訳は特にマーロウの言葉が直截的だ。リンダの方も次第にくだけた物言いになってくる。つまり、派手な喧嘩を契機に二人の距離が縮まっていくのがよく分かる。それに何よりテンポがいい。たしかに1953年に発表された小説ではあるが、せっかく新しく訳すのだから今読んでも古臭くない小説であってほしい。自分の訳もそう心がけている。