火薬の普及によって生まれた兵器・戦術は銃や砲だけではない。
火薬の爆発力はさまざまな兵器に利用され、中には大砲や銃と同じく重要な地位を占めるに至ったものもある。
そうした兵器・戦術の一つが地雷とそれを利用する坑道戦術である。
地雷を用いた坑道戦術がヨーロッパで初めて用いられたのは1439年のこととされる。
1487年には高名な建築家フランシスコ・ディ・マルティーニの指導の下、サルツァネッロ要塞に対する攻撃に使われている。※1
なお、地雷を用いない坑道戦術は中世から存在しており(クリスティーヌ・ド・ピザンの著作にも登場する※2)、地盤を崩すため、あるいは敵城内への侵入路とするために用いられていた。
15世紀末から16世紀前半を通して地雷がヨーロッパ中に普及していった背景にはこうした坑道戦術がすでに普及していた背景があったと考えられる。
16世紀後期の坑道戦術は特殊技能を持つ工兵によって実行されており、一般の兵士が参加することはなかったようだ。
1587年以前にスペイン軍に従軍した兵士によって書かれたとされる『The arte of vvarre』によると坑道戦術は砲兵の管轄であったらしい※3
閲覧可能な文献の中でおそらく最も詳細な坑道戦術・対坑道戦術の知見は『Inuentions or deuises Very necessary for all generalles and captaines, or leaders of men, as wel be sea as by land』に見られる。
この本は1578年に出版され、タイトルが示す通り、さまざまな軍事的発明品を記述した本である。この本では4つの項を使って坑道戦術・対坑道戦術を記述している。
まず最初に2項を使い、対坑道戦術が語られ、後半2項で坑道戦術が語られる、といった構成が取られている。
坑道戦術について語られる後半2項の記述をまとめると以下のようになる※4
・坑道は真っ直ぐではなくジグザグに折れ曲がる。
・爆破室の天井は火薬の樽よりも5~7フィート高く、上部にベントを持つ。
・折れ曲がった坑道を掘るため、あらかじめ坑道の入り口から目標地点までの距離を調べて置き、見取り図を作ってから掘る。
単純に直線形の坑道ではなく、ギザギザのものを推奨し、あらかじめ見取り図を用意するよう勧めるなど、すでにこの当時坑道戦術がそれなりに高度化していたことをうかがわせる描写がある。
一方、1594年にスペインで出版された文献を英語に翻訳した『Theorique and practise of warre』にはこれと異なる方法が記述されている。※5
『Theorique and practise of warre』の記述する坑道は
・坑道を掘るためにコンパスを用いる
・坑道の構造がジグザグとは書かれておらず、むしろ直線的なものと思われる
と、『Inuentions or deuises』のものとは異なる特徴を持っており、複数の異なる方法が試みられていたことをうかがわせる。
最終的には『Theorique and practise of warre』のコンパスを用いる手法が一般的となったようである。
また、『Inuentions or deuises』では爆破室は火薬樽よりも高い天井を取るべきだとしているが、『The arte of vvarre』ではしばしば起こる地雷の失敗が爆破室の天井を高く取っていなかったことにあり、爆破室は高くするべきだとのべている点から、周知の事実とは言えないまでもある程度広まっていた方法であると思われる。
『Inuentions or deuises』は対坑道戦術について、主にその探知方法を記述している。
・坑道の存在が疑われる場合、こちらからも坑道を掘り、地面の下で敵の掘る音を聞きつける。
・坑道の存在が疑われる場所の地面の上に水盆を置き、エンドウ豆を入れて地下で坑道を掘る動きを探知する。
『The arte of vvarre』もこれとよく似た方法を記述している。※6
、私見のかぎり大きく異なる方法を推奨している文献は確認できなかった。
1589年出版の『A true coppie of a discourse』はJohn Norreysの遠征の際にある都市を包囲した際に坑道戦術を用いた様子を記述している。※7
それによれば、坑道が採掘可能な場所を見つけ、三日かけて坑道を掘ったが、十分な量の火薬をセットするに至らず、また突入路を形成することにも失敗している。
そこで翌日の深夜、改めて工兵によって坑道が掘られ、二日後には壁の下に到達した。この坑道に仕掛けられた爆薬によって「塔の半分が吹き上げられ」、歩兵の突撃が行われた。
しかし残った塔の半分が崩れ落ち、攻撃するはずだった歩兵のうち20~30人がその下に埋められてしまい、恐れをなした兵士たちは士官を見捨ててその場を離れてしまった。
士官たちはその日あるいは翌日中に救助されたが、結局この攻撃は失敗のうちに終わった。
1618年に出版された『The actions of the Lowe Countries』では1573年のハールレム攻囲戦における対坑道戦を記述している※8
それによると、発見された坑道の一つは防壁の下にまで達していたが、守備隊は地雷周辺に塹壕を掘り、地雷が爆発したあとの防御設備としたようだ。その結果攻城軍はこの坑道を使った攻撃を諦めることになった。
また別の防壁では、守備隊自身が地雷を仕掛け、攻城軍が侵入してきた際に地雷に着火し防壁ごと爆破する、といったことも行われた。
後者のような守備的な地雷の使用は、ヨーロッパで初めて地雷が使用された1439年にも見られる。
『A true coppie of a discourse』及び『The actions of the Lowe Countries』の記述からは、地雷を用いる坑道戦術が単に構造物の破壊のみを目的とするのではなく、侵入路としても用いるものであったことがわかる。
突撃路として用いるのであれば、『Inuentions or deuises』の記述するジグザグな坑道は不適格であると考えられる。
またこれらの記述からは坑道戦術の弱点も浮かび上がってくる。
坑道が察知されない場合ですら、地雷によって破壊された構造物に坑道や兵士たちが埋められてしまう、といった事態が起こり得たし、
坑道が察知された場合には、防御者が坑道出口周辺に防御設備を設けることで後続の兵士たちによる攻撃の影響を抑えることが可能だった。
火薬によって生まれた新しい戦術である坑道戦術も、同じく火薬によって生まれた新しい兵器である大砲と同様に、16世紀において試行錯誤と対抗策とのいたちごっこを続けながら発展・普及を遂げたのである。
※1
Christopher Duffy, Siege Warfare. p11
※2
Christine de Pisan, Here begynneth the table of the rubryshys of the boke of the fayt of armes and of chyualrye whiche sayd boke is departyd in to foure partyes .Capio・ xxxvij
※3
William Garrard,The arte of vvarre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession: drawne out of all our late and forraine seruices. p280
※4
William Bourne, Inuentions or deuises Very necessary for all generalles and captaines, or leaders of men, as wel be sea as by land: written by William Bourne. p50-53
※5
Bernardino de Mendoza, Theorique and practise of warre. Written to Don Philip Prince of Castil, by Don Bernardino de Mendoza. Translated out of the Castilian tonge into Englishe, by Sr. Edwarde Hoby Knight. Directed to Sr. George Carew Knight, p98
※6
The arte of vvarre, p285
※7
Anthony Wingfield, A true coppie of a discourse written by a gentleman, employed in the late voyage of Spaine and Portingale sent to his particular friend. p19-21
※8
Roger Williams, The actions of the Lowe Countries. p91