「済州4・3を考える会-大阪」メンバーのインタビュー記事が『済州大メディア』に掲載されました。日本語訳を掲載します。
原文はこちら。
4・3をみなの歴史に…大阪の青年たちの「連帯」(済州大メディア2025/11/19)
ウォン・ジュンヒ記者
【インタビュー】済州4・3を考える会-大阪
国籍とルーツを越えた「歴史的共感帯」の形成
特別企画ㅣ在日済州人MZ世代に出会う(5)

日本の大阪で、77年前の済州の悲劇である「済州4・3」を記憶し研究する青年たちの活動が続いている。1999年に結成された「済州4・3を考える会-大阪」(以下、考える会)には、済州にルーツを持つ在日済州人から、4・3と関連がなかった在日コリアン3世、日本人まで、多様な背景の青年たちが参加している。済州大新聞は、鄭賢河さん(25)、金裕賢さん(24)、田中瑞貴さん(21)とのインタビューで、彼らが4・3を自らの歴史として受け入れた過程を取材した。

済州4・3に向かい合う
金裕賢さんは自分を「在日コリアン3世」と紹介した。彼にとって4・3は、とても遠い話だった。彼は「済州にルーツがなく直接的につながる感じがなかった」として「高校時代に4・3を扱った映画『チスル』を見たが、その時は済州でこのような心痛い事件があったと共感するに止まった」と話した。
彼の考えが変わったのは、大学院進学のために大阪に来てからだ。彼は「大阪に来てから4・3慰霊祭に初めて参加した。そこで4・3を避け日本に渡ってきた方々が、とても多いという事実を直接感じた。4・3が単純に済州だけの事件ではなく、数多くの避難民を生み、「在日」というアイデンティティを形成させた歴史的背景であることに気づいた」と話した。
彼は「これは他人ではなく私のことだという気がして、昨年、考える会に参加することになり、それが4・3とつながった契機だった」と話した。
2019年から考える会で活動している鄭賢河さんは、在日済州人3世だ。済州出身の母方の祖父とつながり、父親が4・3慰霊祭実行委員会に参加するなど、4・3はいつも身近にあった。だが、彼もやはり「高校生の時は4・3に対して関心があまりなく、どんな事件なのかよく分からないまま参加した」と話した。「ルーツ」があったにもかかわらず、4・3は長い間「家族の歴史」に過ぎず、「自分の歴史」ではなかった。
彼が4・3を認識するようになったのは、大学に進学して在日コリアン青年団体「KEY」で活動し、考える会に自然に合流してからだ。
田中瑞貴さんもまた、考える会でメンバーとして活動している。彼は「日本人」であり「大学で映像(ドキュメンタリー)を勉強している」と自分を紹介した。小学校時代、韓日歴史問題に関心のある先生に会ったことをきっかけに、在日コリアン問題に関心を持つようになった。大阪にある「大阪コリアタウン歴史資料館」へインタビューに行って、偶然、鄭賢河さんに会い、「4・3を考える会があるが、一度来てくれたら」という勧誘を受けた。彼は「その時は4・3事件について何も知らなかったが、一度行ってみた」と話した。そうして彼は4・3の歴史の中に足を踏み入れた。

悲劇の現場に立つ
考える会の活動を続けながら、本の中の知識ではなく、具体的な「経験」が3人の青年の心を根こそぎ揺さぶった。
鄭賢河さんにとっては「ピースツアー」がそのきっかけだった。彼は「小学校の時から夏休みになると済州島によく旅行に行ったが、4・3の現場に行くことはほとんどなかった。ピースツアーで初めて行くことになった」と話した。

毎年訪れた済州だったが、「歴史の護持」として初めて踏んだ4・3の現場は違った。とくに4・3慰霊碑の裏側に刻まれた数多くの名前が彼を衝撃に陥れた。
その時、彼は4・3の痛みが「3万人」という包括的な「巨大な」数字ではなく、刻まれた名前「一つ一つ」ということを感じた。彼は抽象的な「3万人」という数字が、名前と人生を持った「一人」の集合であることに気づいた。
田中瑞貴さんの転換点も「ピースツアー」だった。瑞貴さんは「初めて済州に行ってみて、直接悲劇の空間を訪問して痛みを感じた」と話した。彼は「このような痛みの責任から日本の植民地支配が抜け出すことはできないだろう」と述べ「日本人としての責任を感じた」と付け加えた。
金裕賢さんにとっては、金時鐘詩人との出会いが決定的な契機になった。金時鐘詩人は釜山で生まれ、幼年時代に済州で4・3の痛みを経験して日本に渡ってきた「生きている歴史」だ。
金裕賢さんは「考える会でその方の話を聞いてみる講演会があった」として、そこで「考える会を含む若者たちも一緒に舞台に上がって、作品に関する質問をする機会を得た」と話した。質問の準備過程で4・3と光州5・18など、韓国現代史の虐殺を扱った金詩人の詩に接し大きな衝撃を受けたという。
金裕賢さんは金時鐘詩人の講演で「人が死んでいく時、そのようなことは後日美化されたり美しいものと表象される傾向がある。しかし虐殺されることは美しいことにはなれない」という指摘が最も印象深かったと話した。
続けて「人は死ぬと肉が裂けて血が出る」という詩人の直接的な描写を通じて「死」の本質を直視することになったと話した。この経験は彼が4・3を抽象的な「犠牲」から進み出て、具体的で残酷な「死」そのものと認識する契機になった。

みなの平和を夢見て
今や彼らはそれぞれの場所で「自分の役割」を探している。
ドキュメンタリーを専攻する田中瑞貴さんの夢は確固たるものだ。彼は「いつか4・3に関するドキュメンタリーを作りたい」と語り「ドキュメンタリーは記録と伝達はもちろん、多くの人にその歴史を近づきやすく伝達する役割があると考えるから」と抱負を語った。今や彼は自分を歴史を「記録」し「伝達」する主体と考えている。
金裕賢さんは「これから多くの人々に4・3について知らせることで役割を果たしていきたい」と話した。彼は「このような事実を知ることになった以上、4・3について考え伝えていかなければならないという責任を感じる」として「まだ若いので多くの人、いろいろな人にこの問題を伝える、そのような存在になれれば」と話した。
鄭賢河さんの誓いは「世代間連結」にあった。彼は「最も重要なことは考える会を継続していくこと」とし、「学生だけでなく社会人の方々とも月に一度ずつ会合をもっている。今はこの活動に集中していく」と述べた。彼はこの記憶の場を守り続けていくことを自分の役目として受け止めている。
彼らは今や4・3を、国境を越えた「みなの問題」と見ている。
金裕賢さんは、4・3の記憶が「ルーツ」に閉じ込められる時の危険性を指摘した。彼は「自らを在日済州人というアイデンティティで規定する方々は、時代が経つにつれて減っている」として「日本社会でそのアイデンティティを守って生きていくことが難しく、次の世代につながる認識の輪も弱まっており、話を聞くことさえ難しくなる時代」と診断し、新しい可能性を提示した。
彼は「むしろ済州に直接的な連結や関係はなくても、4・3のような問題に関心を持って『これは自身の問題だ』と悟る経験が重要だと考える」と強調した。
4・3は特定地域、特定民族だけの問題ではなく、これを「私たちみなの問題」に拡張していくことが重要だという点が、彼らの共通した認識だった。
3人の青年は4・3に会った契機が全て違う。しかし、歴史の痛みを共有し、名前一つ一つを記憶しようと努めている。
彼らの活動は77年前の済州の悲劇が過去に埋められた歴史ではなく、国境を越えて次世代の責任につながる「生きている現在」であることを証明している。
