タイトルで終わり。そういうことについて少し思う。
しかし全くまとまってないのでメモです。
自分はかなりの経験を積んだ初心者であるので、どちらの立場にも感情移入してしまう。「それは学習初期には陥りがちな視点だけど、今はこのように考えられているのだ」ということを自分自身で発言することもあるし、学習途中で道が変化してしまった人のやり場のない気持ちを考えてしまう日もある。
意識せずに自分の道具箱において便利に使っていた道具が、いきなり「それは古くていまでは間違っているとされてるので、使わないでほしいんですよ」って若いやつに言われるのはやるせない話ではあり、なんかね。
そのとき、果たして自分の道具をきちんと疑えるかどうか。自分がいままで正しいとしてきた判断について振り返って「この時点では」と留保をつけていくストレスに自覚的に負けて、なんとかして自分の道具を今のまま使い続けようという振る舞いをしてしまったりしないか。
話は飛ぶ。まああれよ教育の基準となる指針が切り替わるときに、受験生とかが困るとかそういう話に近い。
小学生2年生はこれを理解しているべきであります、と国が指針を変える。昔小学2年生だった人たちは、そうではない教育課程を通り過ぎてる。そして、「これは小学生のころにみんな学ぶことです」というかたちに移り変わっていく社会に適応していくことになる。適応の過程で、「あなたの不理解は小学2年生で通り過ぎるべき状態だ」というメッセージを受け取ることになる。
「幼年期の終わり」ぽいなとちょっと思ったりする。
道な道。
多くの人は発展途上であり、最先端の地点に追いつくことはない。誰かが切り開いた道を意識せず歩いている。
あるとき、自分の歩いていた道が行き止まりになっていることに気が付く。親切に教えてもらったりして。「この道を伸ばしていきたければあなたが伸ばせばいいんですよ」みたいなメッセージを受け取ることもある。そういう親切なケースは少ないかもしれない。とにかく。
いつの間にか、自分の歩いている道は表街道の幹線道路ではなくなっている。後ろを振り向けば、自分の知識は「今では間違っているとされている」というラベルがぺたぺたと張られている。
他人からそれをやられるのは本当にいやなことだ。だから、道を拓くひとは自分から別の道をいつも探しているのかなと思っている。
評価が確立したものだけに寄って立ちたいと思ってもなかなか難しいっすよね。実際のところ。