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原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係 今村均&三浦襄編











        【終章】




        【After Episode 今村均】












589 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:32:24 ID:Yas




1942年11月20日


今村はニューブリテン島ラバウルにて、第8方面軍司令官として着任します。




591 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:34:23 ID:Yas




彡(゚)(゚)「田畑を大量に増設するんやで~」

彡(゚)(゚)「食料は大事やからな、腹が減っては戦はできぬという奴や」

彡(゚)(゚)「さーて、ワイも畑を耕すで~」

(・海・)「戦い始まる前から何やっとんのじゃ、あいつは…」


今村はガダルカナル島の戦訓から、米海軍による補給路の封鎖を想定。
島内に大量の田畑を増設することで自給自足体制を整えます。
今村自身も率先して畑を耕したそうです。

なお、早々に自給自足を提唱した今村に対し、海軍は冷淡な反応を見せました。




592 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:35:33 ID:Yas




(☆●●●●)「ラバウル航空隊は厄介やな…」

(☆●●●●)「西進用の補給路を確保するなら、まずはここを落とさなアカン」

(☆●●●●)「早速空襲するやで~」




593 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:36:55 ID:Yas




彡(゚)(゚)「やっぱり米軍の爆撃は強烈やわ…」

彡(゚)(゚)「上陸作戦にも備えにゃならん」

彡(゚)(゚)「せやから空襲に耐えられるほどの地下大要塞を建設するで」



今村は米軍の空爆と上陸作戦に備えるため、強固な地下要塞を構築しました。
幅1.5m、高さ2.1mの洞窟。全てを合わせると370kmもの長さになる洞窟郡です。
洞窟内には病院、兵器工場なども造られました。

米軍による猛爆撃は連日続きますが、地下要塞内の被害はほとんどありませんでした。




594 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:38:29 ID:Yas




(☆●●●●)「アカン、現有戦力で攻略できる気せーへん」

(☆●●●●)「上陸作戦には多大な犠牲が出るし…」

(☆●●●●)「しゃーない、まずは周辺諸島を攻略するわ」



米軍はラバウル占領を断念。
ラバウルへの空爆は続けたものの、周辺諸島の攻略を優先し、周辺の航空戦力を無力化していきました。

やがて周辺諸島は全て攻略され、ラバウルは孤立化しました。




595 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:39:44 ID:Yas




(・海・)「アカン、周辺の海域が全て米軍に奪われてもた…」

(・海・)「もう籠城するしかないじゃん…」

(・海・)「今村、ワイらにも畑耕せちくり~」

彡(^)(^)「ええで、一緒に最後まで籠城しよか」




596 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:41:13 ID:Yas




ラバウル守備隊は完全に孤立化しましたが、現地の自給自足体制は既に完成し、物資の備蓄も十分でした。

最終的に今村大将率いる陸軍第8方面軍、草鹿中将率いる海軍南東方面艦隊は、
共に終戦までラバウルを確保し続けたのでした。


なお、同じような状況下にあったニューギニア戦線では、
いたずらに出撃を繰り返すことで連合軍に掃討され、人命を散らし続けたそうです。


籠城による持久戦を続けたラバウルでは、終戦まで7万人の兵力が温存されたそうです。




597 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:42:15 ID:Yas





終戦後





598 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:43:16 ID:Yas




彡(゚)(゚)「…諸君、どうか部下の若人たちが失望、落胆しないよう導いてやってくれや」

彡(゚)(゚)「7万の将兵が汗水垂らしてこの地下要塞を建設し、」

彡(゚)(゚)「原始密林を開拓して7000haの自活農園まで作ったんや」

彡(゚)(゚)「この経験、この自信は終始忘れるんやないで」

彡(゚)(゚)「祖国の復興、各自の発展に、しっかり活用するんやで…」




599 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:44:34 ID:Yas




(・日・)「………。」

彡(゚)(゚)「なんや、折角の畑がほったらかしやないか」

彡(゚)(゚)「…せやな、将兵諸君」

彡(゚)(゚)「ワイらは今後も自活を続けて」

彡(゚)(゚)「将来日本が賠償すべき金額を少しでも軽減することをはかる」

彡(゚)(゚)「これがワイらの外地での最後の奉公やで」

彡(゚)(゚)「さ、畑を耕すでー」



今更自活もなにもあるまい、という気持ちがあった部下たちでしたが、
黙々と畑に立つ今村の姿を見て、誰も何も言うことはできませんでした。




600 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:46:19 ID:Yas




彡(゚)(゚)「ラバウル部隊の引き上げは3年半後か…」

彡(゚)(゚)「えらい時間が余ってもたなぁ」

彡(゚)(゚)「…よし、勉強でも教えるわ」

彡(゚)(゚)「兵士のほとんどは小卒やし」

彡(゚)(゚)「帰国したら絶対必要になるしな」

彡(゚)(゚)「ひとまず中学校程度の知識は必要やな」

彡(゚)(゚)「ワイらが生きるのには目標が必要なんや」



今村は軍の中の教職経験者を集めて教師とし、教科書も作成させました。

当時、将兵たちは捕虜であり、無報酬で作業させられていたのですが、
そんな不満も忘れ、彼らは作業の合間に教科書や雑誌を読みふけったのでした。




601 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:47:34 ID:Yas




しかし12月。戦争指導者・戦犯が収容され始めます。


”軍事裁判”が始まりました。




602 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:48:46 ID:Yas




オーストラリア軍イーサー少将は戦犯調査の上、
「ラバウルでは戦争犯罪を問うべきものは何もない」とオーストラリア本国に報告します。

ラバウルにはパラシュートで脱出したパイロットなど少数の白人捕虜がいましたが、
彼らはラバウルの小島に収容され、国際法規に従った取り扱いを受けていたのでした。


しかし、オーストラリア本国の考えは違いました。




603 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:50:05 ID:Yas




(・日・)「インド人の多くが熱帯潰瘍かマラリアにかかっていました」

(・日・)「貴重な予防薬を、苦いとか胃に悪いとか言って捨てる者がいたのです」

(・日・)「私はそういう者を平手で打ちました」

(・日・)「言葉が通じませんでしたので…」

(・日・)「憎しみの気持ちではなく、早く治してやりたかったのです…」

彡(;)(;)「そうか…そうか…」



『医師として、インド人労働者の患者を虐待した』とされた酒井伍長。


彼は今村にこのように語り、死刑となりました。




604 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:51:53 ID:Yas




ラバウルの戦犯裁判は、ほとんどがこのような”労働者への虐待容疑”です。

賃金で雇われた労働者たちは2年以上も日本軍で働いていました。
日本軍に協力したことで罰せられるのを恐れた彼らは「捕虜にされて無理矢理連れて来られた」と言い張りました。

告発した労働者たちは告発状だけを残して帰国。
弁護側は反対尋問する機会も与えられません。


そして今村は、そのように裁かれる部下を一人でも救うべく、自ら志願して収容所に飛び込んでいったのでした。




605 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:53:30 ID:Yas




オーストラリア軍事裁判



彡(゚)(゚)「外人労働者は日本軍が賃金で雇ったものやで、戦争捕虜ではないんやで」

彡(゚)(゚)「仮に万が一虐待があっても、それは戦争犯罪じゃないから、日本の法律で裁くべきなんやで」

彡(゚)(゚)「それでもなお、戦争犯罪として裁くなら」

彡(゚)(゚)「その責任は全て、最高指揮官である自分にあるんやで」

彡(゚)(゚)「部下に責任は全く無いんやで」



最高指揮官である今村の裁判は後回しにされたため、それまでの間、今村は率先して部下の弁護に赴きました。
今村の弁護により刑が軽減されたり、無罪になった部下も多かったそうです。




606 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:54:49 ID:Yas




(・日・)「『参謀長通達』を出しました」

(・日・)「だから全て、参謀長である私の責任です」

彡(゚)(゚)「参謀長に命令権はない!」

彡(゚)(゚)「書記と同じようなもんや!」

彡(゚)(゚)「だから全部ワイの責任や!」

(・日・)「そんなの極論じゃないですか!?」

彡(゚)(゚)「なんやと!?」



今村の側近、参謀長・加藤中将。
彼の裁判では、普段仲の良い二人がお互い譲らず、大喧嘩をしました。


結局、今村の強引な主張が通り、加藤中将は無罪放免となりました。




607 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:56:02 ID:Yas




彡(゚)(゚)「戦犯裁判は戦闘であり、作戦なんや」

彡(゚)(゚)「絶対に勝たなアカンのや」




608 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:57:18 ID:Yas




(・裁・)「それでは被告・今村均の裁判を始めます」

(・裁・)「被告にはラバウル・第8方面軍司令官としての責任が問われています」

(・検・)「検事側は死刑を求刑します」



オーストラリア軍は、戦時中の汚名をそそぐためにも、何としてでも今村を死刑にしようとしていました。




609 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:58:36 ID:Yas




しかし。



(●゚◇゚●)「そんな!死刑は重すぎます!」

(●゚◇゚●)「今村さんは何も悪くありません!」

(●゚◇゚●)「今村さんは優れた人格者でした!」

(・裁・)「……ではひとまず禁錮10年で」



オーストラリア軍は、戦時中の今村の軍政や軍事指揮の中に、今村を死刑にする口実を見出せませんでした。
現地住民などの証言も今村を擁護をしたため、無理矢理罪状を被せ、何とか懲役刑にしたといいます。



彡(゚)(゚)「そか」

彡(゚)(゚)「それはともかく、部下の判決の再審を請願するで」




610 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)21:59:57 ID:Yas





やがてオーストラリア軍事裁判は終わり、

続いて東インドでの今村の罪状が問われることになりました。





612 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:01:14 ID:Yas




オランダ軍事裁判



(・裁・)「それでは被告・今村均の裁判を始めます」

(・裁・)「被告には東インド・第16軍司令官としての責任が問われています」

(・検・)「検事側は死刑を求刑します」



今村はオランダ側の検事によって死刑が求刑されました。





613 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:02:23 ID:Yas




ジャカルタ刑務所



彡(゚)(゚)



ジャワ島での裁判が始まり、今村はジャカルタの刑務所に収容されていました。




614 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:03:36 ID:Yas




(≦・ω・≧)「今村さん、今村さん」

彡(゚)(゚)「お、飯か」

(≦・ω・≧)「日本時代の最高の指揮官が来たことを、私たちはとても喜んでます」

(≦・ω・≧)「今夜7時になれば、きっとあなたにもそれが伝わると思います」

彡(゚)(゚)「?」




615 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:04:56 ID:Yas




(≦・ω・≧)「…もうすぐ7時になります」

(コーン)

~♪~♪

彡(゚)(゚)「この歌は……”八重潮”か…?」


今村が統治していた時代。
今村が公募し、日本人とインドネシア人、双方から集められた歌詞によって制作された、
日本人とインドネシア人が双方の国語で一緒に歌う、両民族融和の歌がありました。
”八重潮”。
この歌はジャワ島の町から村へと広がり、日本の将兵と原住民が同席すれば、必ず歌われたといいます。

ジャカルタの街は、地の底から沸き立つ大合唱に包まれました。




616 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:05:28 ID:Yas




やがて今村はジャカルタの別の刑務所に移されます。




617 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:06:29 ID:Yas




(≦・ω・≧)「今村さん、今村さん」

彡(゚)(゚)「お、なんや?」

(≦・ω・≧)「私はスカルノ氏の密使です」

(≦・ω・≧)「今日は今村さんの救出計画を伝えに来ました」

(≦・ω・≧)「もしあなたの死刑が確定したら、共和国政府は死刑場に行くあなたを奪回します」

(≦・ω・≧)「今こそ大恩に報いるときなのです」


今村の東インド統治時代、今村はオランダによって投獄されていたスカルノを解放しています。
それ以来、今村とスカルノは親交を続けていたのでした。




618 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:07:47 ID:Yas




しかし。



彡(゚)(゚)「お心は嬉しいが…」

彡(゚)(゚)「ワイはこのままここで裁判を受けるつもりや」

彡(゚)(゚)「ワイには罪がある、せやからここにいて責任を取らなアカンのや」

彡(゚)(゚)「何よりお前らを危険な目に遭わせたくないんや」

彡(゚)(゚)「すまんな」




619 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:08:58 ID:Yas




(≦・ω・≧)「そうですか…わかりました」

(≦・ω・≧)「では、もう少しここでお話しをさせて下さい」

(≦・ω・≧)「私たちがいる限り、あなたを有罪になんてさせませんから」



ジャカルタの刑務所での投獄中、今村はインドネシア人の看守に励まされ続けたそうです。




620 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:10:10 ID:Yas




彡(゚)(゚)


(´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)
 (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)
(´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)



(・裁・)「…オランダが告発した罪状は、全て根拠のないものである」

(・裁・)「以上より、東インド・第16軍司令官時代の今村の判決は」

(・裁・)「全て無罪とします」




621 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:10:38 ID:LcG



今村さんかっこよすぎやろ……


623 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:12:22 ID:51S



これが今村さんやで


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624 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:12:54 ID:F3J



>>623
ええお顔や



622 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:11:18 ID:Yas





インドネシアでの判決は無罪だったものの、オーストラリアでの判決”禁錮10年”は生きています。

1949年。今村は巣鴨拘置所に送られました。





625 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:12:55 ID:Yas




しかし。



彡(゚)(゚)「なぁ、ワイをマヌス島の刑務所に移してくれんか?」

彡(゚)(゚)「元部下たちは未だに環境の悪い南方で服役しとる」

彡(゚)(゚)「ワイだけが東京にいることはできないんや」

彡(゚)(゚)「なぁ、頼むわ」

(・看・)「だめです」



今村は、多数の日本軍将兵が収容されるマヌス島刑務所への入所を希望します。
そこは”最悪の収容所”とも恐れられる場所でした。





626 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:14:04 ID:Yas




彡(゚)(゚)「…頼んだで」

(・妻・)「分かりました」


(・妻・)「お願いします、どうか夫の頼みを聞き入れてもらえないでしょうか…?」

(☆●●●●)「…そうか」



そして今村は妻の伝手を通じてマッカーサーに直訴したといわれています。




627 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:15:04 ID:Yas




(☆●●●●)「今村将軍のマヌス島行きを許可する」

(☆●●●●)「…私は日本に来て初めて、真の武士道に触れたよ」




628 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:16:12 ID:Yas




マヌス島での獄中生活は、今村の人柄もあり、とても和やかなものだったそうです。

3年後。マヌス島の刑務所は閉鎖され、全員が日本に送還。
今村は残りの刑期を巣鴨の刑務所で過ごしました。


そして10年後...




629 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:17:22 ID:Yas




彡(゚)(゚)「…ワイの刑期は終わった」

彡(゚)(゚)「せやけど、ワイの罪が消えることは一生ないんや」

彡(゚)(゚)「自宅の隅に独居房と同じ広さの謹慎小屋を建てたで」

彡(゚)(゚)「今日からここに住むんや」

彡(゚)(゚)「これからは軍人恩給だけで質素に生活する」

彡(゚)(゚)「出版した『回顧録』の印税は、全て戦死した部下の遺族、処刑された部下の遺族のために使用する」

彡(゚)(゚)「元部下たちには出来る限りの援助をするで」

彡(゚)(゚)「それが、ワイが死地に赴かせた部下たちへの、せめてもの贖罪なんや…」




630 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:18:42 ID:Yas





今村の行動に付け込み、元部下だと偽って金を無心する者もいました。
しかしそれに対しても今村は、それを承知の上で拒むことはなかったそうです。


なお、今村は『戦陣訓』の”原文”を書いた人物です。
「生きて虜囚の辱めを受けず」の一文で有名なこの文書。
『戦陣訓』の”完成版”にこの一文が載っていたことを今村は憤慨し、終生それを悔いていたそうです。




631 :名無しさん@おーぷん :2015/04/08(水)22:20:09 ID:Yas




1968年10月4日死去。享年82歳。

最終階級・陸軍大将。
温厚で高潔な人柄。

占領地での軍政・指導能力は高く、原住民や敵国連合国側からも讃えられる、
太平洋戦争中の日本で数少ない、本物の名将です。




       【After Episode 今村均  完】






644 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:29:12 ID:6Xh







        【Side Episode 三浦襄】






645 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:30:12 ID:6Xh




彡(゚)(゚)


”三浦襄”という人物の話をします。
彼は軍人ではなく、商人でした。




646 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:31:23 ID:6Xh




1909年



彡(^)(^)「”南洋商会”に興味持ったから入会したで~」

彡(^)(^)「高校中退してジャワ島に渡航するで!」



半年後…



彡(゚)(゚)「やっぱ”南洋商会”脱退するわ」

彡(^)(^)「しばらくその辺の諸島を放浪するで~」




647 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:32:39 ID:6Xh




1912年



彡(^)(^)「セレベス島で雑貨のお店を開くで~」



1916年



彡(^)(^)「結婚もしたし、相棒と”日印貿易商会”も開業したで~」

彡(^)(^)「南洋各所で色んな貿易するで~」

彡(^)(^)「順風満帆ですわ」



1925年



彡(゚)(゚)「相棒が強盗に殺られてもた…”日印貿易商会”も解散やな…」





648 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:33:50 ID:6Xh




彡(^)(^)「気を取り直して別の相棒とコーヒー園の経営を始めるで~」

彡(^)(^)「再婚もしたし今度こそいけるわ!」

ちなみに前妻の死因は過労死だったそうです。



1930年



彡(゚)(゚)「やっぱコーヒー園も駄目だわ」

彡(゚)(゚)「どないしよ」



…など、中々に波瀾万丈な人生を送っていました。





649 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:35:02 ID:6Xh



彡(゚)(゚)「さて、次はどないしよかな…」

彡(^)(^)「よし!今度はバリ島で商売するで」

彡(^)(^)「自転車の修理業をするやで~」

彡(^)(^)「店の名前は”TOKO MIURA”や!」




650 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:36:21 ID:6Xh




バリ島



彡(゚)(゚)「……日本人はあんまおらんな、ワイら含めると3家族しかおらんみたいや」

彡(゚)(゚)「まぁええわ、原住民を雇ってバリ島各地に支店も開業するで」

彡(^)(^)「店のことは店員に任せて、ワイはバリ島各地を駆け回るで~」


「南方に行ったら住民の利益のみを考えよ」。三浦は教師だった父の言葉を実践します。
やがて三浦は住民から人望を獲得し、”トコ・スペダ・トワン・ジャパング”(自転車屋の日本の旦那)と慕われるようになりました。

三浦は熱心なクリスチャンでしたが、バリ島民の大半はヒンドゥー教です。
それにも関わらず島民から受け入れられたのは、彼の敬虔な信仰から来る誠実さがあったからではないでしょうか。




651 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:37:12 ID:6Xh





やがて日本人の引き上げが始まり、三浦も最後の引き揚げ船で日本に帰国しました。




652 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:38:13 ID:6Xh




1942年2月



三浦は軍の随伴員として、再びバリ島に戻ってきました。


彡(゚)(゚)「この戦争はバリ島は勿論、アジア10億人の解放運動なんや!」

彡(゚)(゚)「インドネシアは必ず日本軍の力で独立させる!」

彡(゚)(゚)「日本は決して嘘は言わん!信じてくれや!」

(●゚◇゚●)「日本軍は怖いけど…」

(●゚◇゚●)「三浦さんがいるなら、信じてみようかな…」



三浦は現地の王族たちを集めて演説し、バリ島の人々を安心させました。




653 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:39:44 ID:6Xh




東インド占領後…



(●゚◇゚●)「ねぇ、白髪のおじさん」

(●゚◇゚●)「ちょっと困ったことになってるんだけど…」

彡(゚)(゚)「しゃーない、ワイが協力したるわ」



日本軍政時代に起きた多くの問題。
それらのほとんどは習慣の相違、言葉の不自由によるものでした。
現地に詳しかった三浦はそれらを仲介し、多くの島民が助けられました。


三浦の風貌は古武士を思わせるものだったそうです。
島民による愛称は”白髪のおじさん”。
地元民には最大の敬語”トアン・ブサール”で呼びかけられることもあったそうです。




654 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:40:53 ID:6Xh




(・日・)「軍の要請により、缶詰加工工場が必要になった」

(・日・)「やってくれるかな?」

彡(゚)(゚)「はい、分かりました」


彡(゚)(゚)「三浦商会で缶詰加工工場を新設するで~」

彡(゚)(゚)「業務運営、経理など全てバリ人に委ねるで~」

彡(゚)(゚)「勿論賃金は全部お前らのもんやで~」



三浦は貧しいバリ人を集めて雇い、それによって得た代金は全て、原住民に支払われたそうです。




655 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:42:04 ID:6Xh




(●゚◇゚●)

彡(゚)(゚)「なんや、お前、孤児かいな?」

彡(゚)(゚)「しゃーない、ワイが引き取ったるわ」

 (●゚◇゚●) (●゚◇゚●) (●゚◇゚●) (●゚◇゚●) (●゚◇゚●)



三浦は孤児を十人以上も引き取っていました。
三浦の収入と言えど、子どもを10人以上も育てるのは、流石に容易ではなかったはずです。




657 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:43:15 ID:6Xh




(・日・)「三浦くん、君は随分と島民に気に入られてるようだね」

(・日・)「君が協力してくれるなら、ここの統治は上手く行きそうだ」

(・日・)「君が推薦したプジャをここの知事に立てるよ」

彡(゚)(゚)「ありがとうございます!」



バリ島の軍政にあたった堀内豊秋。彼は三浦に全幅の信頼をおいていました。
住民の統治に関することは全て三浦に委ねられ、バリ島の治安は他所で見られないほどの平穏を保ち続けました。

ちなみに、プジャは後にインドネシア独立準備委員会のバリ代表となりました。




658 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:44:29 ID:6Xh




1944年5月



彡(゚)(゚)「病気療養で日本に戻るで」



1944年9月



彡(゚)(゚)「”小磯声明”か…遂にインドネシアも独立なんやなぁ」



1944年12月



彡(゚)(゚)「やっぱりバリ島に戻らないと(使命感)」

彡(゚)(゚)「ワイは彼らと約束したんや」

彡(゚)(゚)「死が行く手に待ち構えていても」

彡(゚)(゚)「使命だけは、断じて果たさねばならないんや」




659 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:45:40 ID:6Xh




彡(゚)(゚)「日本の占領はインドネシア独立のための唯一の手段なんや」

彡(゚)(゚)「せやから軍政は厳しいけどなんとか耐えてくれや」

彡(゚)(゚)「独立はもうすぐなんや!」

(●゚◇゚●)「わかったよ、白髪のおじさん」




660 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:46:49 ID:6Xh




彡(゚)(゚)「今日も軍人が原住民たちをぞんざいに扱ってたわ…」

彡(゚)(゚)「軍の慰安所に連れて行かれそうになった女性も居ったで」

彡(゚)(゚)「勿論ワイが助けたったけどな」

彡(゚)(゚)「あいつらホンマどうなっとんねん…」

彡(゚)(゚)「怒りが収まらんから日記にでも書いとこ」


彡(゚)(゚)「でもこれも、インドネシアが独立するまでの辛抱や」

彡(^)(^)「それまではワイら日本人が導いてあげんとな」



三浦は心の底から”インドネシアの独立”を信じていました。
だからこそ、彼らのためを思い、島民を説得し続けていたのでした。




661 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:48:05 ID:6Xh




1945年7月



U・ω・U「シガラジャで”小スンダ建国同志会”を結成するよ」

U・ω・U「バリ島でもインドネシア独立に向けて活動を開始するんだ」

U・ω・U「代表はぼく、プジャだよ」

U・ω・U「基本的にバリ人だけの会なんだけど…」

U・ω・U「三浦さんには特別に、この同志会に入ってもらうんだよ」

U・ω・U「事務総長に就任してもらうんだ」




662 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:49:18 ID:6Xh




1945年8月14日



彡(゚)(゚)「同志会に参加するためシガラジャに向かうで~」

彡(゚)(゚)「ワイが経営しとる畜産会・商会はバリ人従業員に任せてきたわ」

彡(^)(^)「それじゃ行くか、楽しみやな~」




663 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:50:20 ID:6Xh





1945年8月15日

敗戦





664 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:51:21 ID:6Xh




(●●●●●)「日本は負けた」

(●●●●●)「日本が進めてきたインドネシア独立は全て無効」

(●●●●●)「インドネシア独立は、なくなったんや」

(●●●●●)「すまんな」



彡()()「…ぁ……」

彡()()「……ぁぁ゛…………ぁぁ゛ぁ゛…」

彡()()「ぁあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁああぁああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!!!!」




665 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:52:31 ID:6Xh




彡()()「………………」

(●゚◇゚●)「……元気だして?白髪のおじさん」

彡()()「……ワ、ワイが今までしてきたことは…」

彡()()「………………一体、なんやったんや……」




666 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:53:40 ID:6Xh




彡(;)(;)「すまんかった、本当にすまんかった…」

彡(;)(;)「独立できなくて、ホンマすまんかった………」

(●゚◇゚●)「白髪のおじさん、顔をあげて?」

(●゚◇゚●)「これは仕方のないことだったんだよ」

彡(;)(;)「いいや!そんなことあらへん!」

彡(;)(;)「独立はできた!できたはずなんや……」


彡(;)(;)「…………」

彡(;)(;)「…………」

彡(゚)(゚)「…………」




667 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:54:51 ID:6Xh




彡(゚)(゚)「…………」

彡(゚)(゚)「…”日本人は戦いに負けたら自決する”と、お前らには教えた」

彡(゚)(゚)「しかし天皇陛下の命により、日本人は誰も自決することができない」

彡(゚)(゚)「それやとワイら日本人は嘘を吐いたことになる」

彡(゚)(゚)「せやから………」



彡(^)(^)「………ワイが日本人を代表して、自決するわ」




668 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:56:11 ID:0AT



三浦さああああんやめろおおおお


669 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:56:17 ID:6Xh




1945年9月6日



彡(^)(^)「…ホンマにお前らにはすまんことしたな」

彡(^)(^)「独立させてやれんで、ホンマすまんかったな」

(●゚◇゚●)「…ねぇ、白髪のおじさん、本当に考え直してくれない?」

(●゚◇゚●)「おじさんには本当にお世話になったんだよ」

(●゚◇゚●)「バリ島がこんなに平和だったのは、おじさんのお陰なんだよ?」

彡(^)(^)「…そうか、ありがとな」

彡(^)(^)「せやけどな、もう連合軍がそこまで迫っとる」

彡(^)(^)「捕まったらそこで最期や、もうバリ島には戻って来られん」

彡(^)(^)「インドネシアの独立をこの目で見られん」

彡(^)(^)「ワイはな、魂だけでもこの地に残って」

彡(^)(^)「インドネシアの独立を、見守りたいんや…」

(●゚◇゚●)「おじさん…」

彡(^)(^)「さぁ、最後の晩餐や、盛大に食そうや…」




670 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:57:27 ID:6Xh




1945年9月7日



『小磯声明』の一年後。
日本が約束した、”インドネシア独立が実現するはずだった日”。


その日の早朝。
三浦襄は拳銃で自決しました。




671 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:58:41 ID:0AT



oh……


672 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:58:48 ID:6Xh




彡(^)(^)「この戦争で、我が祖国日本の勝利を念ずるためとはいえ」

彡(^)(^)「私の愛するバリ島の皆様に、心ならずも真実を歪めて伝え」

彡(^)(^)「日本の国策を押し付け、無理な協力をさせたことをお詫びします。」


彡(^)(^)「今まで威張り散らしていた日本人も」

彡(^)(^)「明日からは捕虜として、皆様の前で惨めな姿を見せるでしょう。」

彡(^)(^)「彼らが自決せずに屈従するのは」

彡(^)(^)「新しい日本、祖国再建に力を尽くそうと思っているからです。」


彡(^)(^)「なので、自決するのは私一人で良いと思います。」

彡(^)(^)「私が、日本人皆の責任を負って、自決します。」




673 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)22:59:49 ID:6Xh




その後…


(・豪・)「そうか、そんなことが…」

(・豪・)「三浦襄の葬儀を許可する」

(・豪・)「弔ってやりなさい」



進駐してきたオーストラリア・オランダ軍は、三浦の葬儀を許可します。

三浦の葬儀は日本式で行われました。
葬儀には8人の王、16人の僧正なども訪れ、参列したバリ人は1万人もいたそうです。




674 :名無しさん@おーぷん :2015/04/09(木)23:00:49 ID:6Xh





その後も彼の墓所には花が絶えません。
日本人が訪れて慰霊祭を行うと、今なお大勢のバリ人が集まるそうです。


「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシア独立のために死んだ」
墓碑に刻まれた言葉と共に、彼は今でも、バリ島で静かに眠っています。



        【Side Episode 三浦襄 完】











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