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原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係 インドネシア独立運動編






(*^◯^*)<今日は日本と東南アジアの豆知識からなんだ!









223 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:01:44 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その1

1854年。日本は鎖国から解放されます。
これにより日本人は東南アジアに溢れ出ました。
それらは貧しさ故の、南方で成功したいという一旗組でした。

日本人の海外渡航の先駆け。それは『カラユキサン』でした。

語源は唐行。唐とは「外国」の意。



売春婦です。




224 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:03:08 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その2

例えば、1897年のジャワ島在留邦人。
全125名のうち、女性はなんと100名だったそうです。
彼女らの職業が記されていないのは、察して下さい。

”カラユキサン”は主に九州の天草、島原の貧困層の女性でした。
斡旋業者は貧しい農村を回り、年頃の娘を見つけると「海外で奉公させる」などと言って親に現金を渡します。
斡旋業者は彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得ていました。

当時、中国や東南アジアに石炭が輸出されていましたが、
彼女らはその積み荷の隙間に紛れて密出航していたのでした。




225 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:04:32 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その3

シンガポールから東南アジア各地に”カラユキサン”が送られる拠点があり、
東南アジアの都会にも田舎にも”カラユキサン”は居たそうです。

作家・山崎朋子の作品『サンダカン八番娼館』。
ノンフィクション小説。
後に映画化もされたこの作品は、”カラユキサン”として渡った女性への聞き取り調査を基にしているそうです。

ボルネオ島東端のイギリス領、サンダカン。
こんな場所にすら”最低8つ以上の『カラユキサン』による娼館があった”。
それほどまでに、東南アジアには日本の女郎屋があり、”カラユキサン”が居たということです。




226 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:05:46 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その4

日本統治時代の台湾銀行バタヴィア支店、スラバヤ支店開設時。
それらは”カラユキサン”の仕送りで営業が成り立っていた、という話もあります。

現在の経済大国・日本の基礎となったのは、明治時代、安い賃金で工場で働く女性労働者”女工”です。
”女工”の生産した綿製品を不当に安く輸出することで、日本は工業社会にのし上がりました。
それらは女性の汗と涙でできていました。

しかし実は女性の肉体そのものも輸出されていた。
それが”カラユキサン”です。




229 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:09:28 ID:rHp



女工さんは何気に入工前より待遇、境遇ましやで


227 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:06:58 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その5

当初、”カラユキサン”さんは世論において『娘子軍』として持ち上げられ、明治末期にその最盛期を迎えました。

しかし日本の国勢が盛んになるにつれ、”カラユキサン”は国家の恥として非難されるようになりました。

1920年。廃娼令により海外の日本人娼館は廃止されました。
多くの”カラユキサン”は日本へ帰還しましたが、更正策もなく残留した人もいたそうです。





228 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:08:21 ID:ivN(主)




・豆知識『カラユキサン』その6

現在、東南アジアで”カラユキサン”の痕跡が残るのは、日本人墓地の一画のみです。
そこには墓碑らしい黒く変色・風化した石が無造作に置かれているそうです。

今、東南アジアでは卒業旅行で訪れる日本の女子学生たちが各地の国際空港、高級ホテル、リゾート地に溢れています。
彼女らはちょうど、”カラユキサン”と同じ年頃です。
”カラユキサン”と女子学生たち。彼女らの時代はたった100年しか違いません。
たった100年、されど100年。越えられない時の重みを感じます。


【豆知識『カラユキサン』 完】





230 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:09:52 ID:ivN(主)




・豆知識『トコ・ジュパン』その1

”カラユキサン”と同時期に東南アジアへ出た日本人です。
見世物師や家事従業員がいましたが、
最も羽振りが良かったのは、やはり”カラユキサン”を抱える女郎屋の大将でした。

海外に出た行商人は初めは”カラユキサン”を相手にする商売だけでしたが、
次第に住民相手への商売に広がっていき、やがて店舗を構えるようになりました。




231 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:11:06 ID:ivN(主)




・豆知識『トコ・ジュパン』その2

日本人の店は『トコ・ジュパン』(Toko Jepang:日本人の店)と呼ばれ、正直者の店として評判でした。
トコ・ジュパンは薬品、雑貨、衣料、陶器、自転車、床屋、写真館、運送店などを営み、
特に薬の行商は歓迎され、皮膚病、眼病用の薬はよく効いたそうです。

太平洋戦争前には8000人ほどの日本人がオランダ領東インドに在住。
当時はオランダ領東インドのあらゆる街に満遍なく散らばっており、
少し大きな街には華僑商店に混じって1,2軒ほどのトコ・ジュパンがありました。





232 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:12:27 ID:ivN(主)




・豆知識『トコ・ジュパン』その3

やがて日本の大商社も遅れてオランダ領東インドに進出してくるようになります。
ビジネス街に大きな店を構え、殖産会社、外交官、銀行、船会社、商社なども進出してきます。

彼らは転勤で日本に帰る者と、帰る予定のない者に分かれます。
帰る予定のない者も、日本国籍は残したままなので、
日本から妻と子どもを連れてやってきた彼らは、一種の出稼ぎのようなものでした。




233 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:13:49 ID:ivN(主)




・豆知識『トコ・ジュパン』その4

オランダ領東インドにおける日本人の最初の位置付けは”東洋外国人”。
華僑やアラビア人と一緒のものでした。

しかし1899年。
オランダとの協定で、日本は法的にはヨーロッパと同等の地位が与えられます。
日本の経済進出も目覚ましく、彼らは日本人を”名誉白人”として受け入れざるを得ませんでした。


本編を挟み、その5に続きます。





235 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:15:43 ID:ivN(主)




1901年



(´・ω・`)「もう…だめ…」



”強制栽培制度”はジャワ島農耕地の生産力を上げ、ジャワ島の人口を増加させました。
しかしジャワ島の農民たちの窮迫ぶりは以前にも増して酷いものでした。

農民たちを苦しめた”強制栽培制度”は、中断を挟んだものの、姿形を変え、未だに存続し続けていたのです。




236 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:17:07 ID:ivN(主)




(・蘭・)「原住民が可哀相だ!原住民の福利向上をはかるべきだ!」



(●▲●)「オランダ本国での反発が強くなってきたなー」

(●▲●)「まぁ知らんけどな」




237 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:18:30 ID:ivN(主)




☆「オランダはジャワ農民に対して『名誉の負債』を負い、植民地住民への倫理的責任と道徳的義務がある」


(●▲●)「ファッ!?女王が演説!?」

(●▲●)「しゃーない、教育ぐらいは受けさせたるわ」



オランダ本国の批判の声が高まり、オランダ女王ウィルヘルミナの演説を経て、
『倫理政策』と呼ばれる政策がとられるようになりました。

これにより初等、中等学校が新設され、医師、官吏養成学校なども設けられ、オランダの大学に留学する者も増加。
愚民化政策で制限されていた教育の機会がようやく与えられるようになったのです。




238 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:19:58 ID:ivN(主)




ちなみに倫理政策の内容は 1.キリスト教の布教 2.権力分散 3.住民への福祉 4.教育 です。

権力分散は植民地政府への権限委譲であり、現地民への権限委譲ではありません。
住民への福祉も、搾取の度合いから見れば雀の涙ほどです。
イスラム教が主流のインドネシアでキリスト教を布教すれば、それは分断統治の側面を持ちます。
現地民が唯一実感できたのは教育だったと言えます。




239 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:21:34 ID:ivN(主)




・『名誉の負債』について

紳士ならば、例え義務はなくとも道徳的に支払うものである――。



例:

(●▲●)「よっしゃ!またワイの勝ちや!」

(´・ω・`)「うぅ、もう一文無しだよ。どうやって家に帰ろう…」

(●▲●)「なんや、しゃーないな。帰りの電車賃ぐらいは恵んでやるで」

(●▲●)「ワイは勝者やからな、紳士ならそれくらいは当たり前やろ?」



散々甘い汁を吸っておいて「『名誉の負債』だから恵んでやる」というところが実に植民地帝国らしいです。




240 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:22:57 ID:ivN(主)




・豆知識『オランダ留学生』

”倫理政策”導入後、優秀な原住民学生にはオランダ留学のチャンスが与えられました。
留学生はヨーロッパの近代主義に触れ、母国の実体を知り、やがて民族意識を自覚することとなります。

植民地内ではほとんど口をきく機会のない民族同士。
彼らに「同じ植民地民である」という連帯感が生まれたのは、オランダの学生街の下宿、その屋根裏部屋でした。
この連帯感もやがて、インドネシアの民族意識へと拡大していくのでした。




241 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:24:35 ID:ivN(主)




1908年



( ・`ω・´)「オランダ留学から戻ってきたよ」

( ・`ω・´)「ところでぼくたちの故郷はいつまで植民地なんだろう?」

( ・`ω・´)「同じ国の中なのに言葉はバラバラだし」

( ・`ω・´)「そろそろぼくたちは『インドネシア』としてオランダから独立するべきじゃないか?」



植民地の原住民に許された最高位の職業は”医師”でした。
しかし医学を修める彼らは、次第に植民地社会という病巣そのものを意識するようになります。
最優秀の原住民青年が集う医師養成学校は、多くの民族主義者を育てるゆりかごになりました。




242 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:25:50 ID:ivN(主)




医師ワヒディン。
彼は奨学金制度の必要性を呼びかけ、王室や貴族に賛同者を得ました。

そんなワヒディンの影響を受け、青年医学生ストモはある組織を結成します。




243 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:27:25 ID:ivN(主)




1908年5月20日。

教育を受けた知識人が中心となり、ジャワ島で初めての民族主義団体『ブディ・ウトモ』が結成されます。
”ブディ・ウトモ”とは『最高の英知』の意。
教育による社会的地位の上昇を目的とし、この日、第1回大会を開催しました。

”ブディ・ウトモ”は文化活動に重点を置く一方、宗教的・政治的活動はなく、
大衆的基盤もなく、ジャワ人上層階級のみが対象だったため、会員数は最大の時でも1万人を越えませんでした。


そんな”ブディ・ウトモ”の結成日ですが、後にこの日は『民族覚醒の日』として祝日に定められます。
オランダの船団がインドネシアに着いたあの年から300年。
過酷な植民地支配下に耐え続けた東インド諸島の原住民たち。
彼らに遂に民族意識が芽生えた、これはその最初の日なのです。




244 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:28:49 ID:ivN(主)






【番外編:日露戦争】





245 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:30:11 ID:ivN(主)




外国関連で唯一思い出すことは、5歳の頃に父と見た雑誌の写真についてである。

その写真は乃木将軍と東郷元帥の像であった。

アジアの小国でさえ、ヨーロッパの大国に打ち勝てる。

その戦争はそれを示していた。

日露戦争はアジア人を眠りから呼び覚ました。

アジアとインドネシアのその後の政治発展の中で、

日本の勝利は計り知れないほど大きなものがあった。


 民族主義者:イワ・クスマ・スマントリ、自伝『インドネシア民族主義の源流』より





247 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:31:34 ID:ivN(主)




日本の水雷艇による奇襲で始まった日露戦争。
日本の攻撃により次々と艦が沈み、次第にロシアの太平洋艦隊は戦力を失いつつありました。

そこでロシアはバルト海艦隊の主力を引き抜き『第二太平洋艦隊』を編成。
更にバルト海艦隊残留艦から第三太平洋艦隊を編成。極東へ送り出しました。
これらが日本で『バルチック艦隊』と呼ばれる艦隊です。


この結果、ロシア艦隊は条約により黒海から出られない黒海艦隊を除いた、
そのほぼ全ての艦隊を日露戦争に動員することになりました。




248 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:33:04 ID:ivN(主)




1904年4月。



(´・ω・`)「あれが世界最大、最強のバルチック艦隊…」

(´・ω・`)「あんなのにやられたらひとたまりもないよ…」

(´・ω・`)「日本も不憫だね…」



マダガスカル島沖で集結したバルチック艦隊は、マラッカ海峡を威風堂々と通過します。
港からバルチック艦隊を眺めた人々は、この艦隊の的になる東洋の小国、その運命に胸を痛めました。




249 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:34:35 ID:ivN(主)




1904年5月28日。



(´・ω・`)「えっ、バルチック艦隊が壊滅!?」



対馬海峡にて。
日本はロシアのバルチック艦隊に完勝しました。

バルチック艦隊の損害は沈没21隻、拿捕されたものが6隻。
他に6隻が中立国に逃亡し、ロシアのウラジオストクへ到達できたのは僅か3隻のみでした。
戦死4830名、捕虜6106名。捕虜には二人の提督も含まれます。

一方の日本軍は、駆逐艦1隻の大破、水雷艇3隻の沈没、主力艦は中破すらほぼ無し。
戦死117名、戦傷583名と非常に軽微な損失であり、
大艦隊同士の艦隊決戦としては、史上稀に見る一方的な勝利でした。

『日本海海戦』、又は『対馬沖海戦』と呼ばれるこの海戦。
当時世界最大・最強レベルと思われていた巨大艦隊が忽然と消滅したこの海戦は、
日本の同盟国イギリスや、仲介国アメリカすら驚愕させました。





254 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:38:45 ID:LZB



ロシア側5000人近く死んだのか…
捕虜6000人てのも凄い数だな


・小豆知識『日本海海戦の捕虜』

ロシアの6000名以上の捕虜は、その多くが艦の沈没により海に投げ出されたものの、日本軍の救助活動によって救命されました。
また、対馬や日本海沿岸に流れ着いたものの多くは、各地の住民によって保護されました。

国際社会に「文明国である」とアピールするために、日本は戦時国際法に忠実でした。
そのため、戦時法遵守が末端の小艇水兵にまで徹底されました。

当時の日本国民は戦時財政下の中で困窮に耐えていましたが、
ロシア兵の捕虜は、その中でも十分な治療と食事を与えられ、健康が回復し次第帰国したそうです。
軍法会議での処罰を恐れる士官は日本に留まることもできました。

日本の戦時国際法の遵守。これには世界各国から賞賛が寄せられたそうです。






251 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:36:09 ID:ivN(主)




ヨーロッパ人がアジア人を支配するこの植民地構造。
これは当時の”ダーウィンの進化論”により、『優者=白人』『劣者=有色人』という理屈で正当化されていました。

しかし日露戦争でのアジア人・日本による勝利。
これは白人優者神話を根底から打ち崩すものでした。

東南アジアの民主主義者は大きな衝撃を受け、後に前述のような記述を残しています。
インド首相ネルーの自叙伝にも同様の記述があるようです。

日露戦争における日本の勝利は、東南アジアの各国に大きな影響を与えました。





252 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:37:42 ID:ivN(主)




そんな中、インドネシアでは一つの予言が注目されます。
”ジョヨボヨの予言”。
その中に出てくる”黄色い人間”とは日本人のことではないか?
日露戦争で日本が勝利すると共に、そんな日本待望の噂が広まるのでした。


インドネシア・民族覚醒の日、ブディ・ウトモの結成。
それは日露戦争の3年後、1908年のことでした。




【番外編:日露戦争 完】




255 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:39:06 ID:ivN(主)




・豆知識『仁丹』

かつて、東南アジアで日本を象徴する商品は『味の素』でした。
しかし太平洋戦争以前、日本を象徴する商品は『仁丹』でした。

仁丹は薬用効果による人気もありました。
しかしその隠れた任期の秘密は、その包装紙でした。

髭を生やした軍医の絵。
東南アジアの民衆は、日露戦争で白人を破った日本軍人を、その包装紙で見つけたのでした。

更に人々は”Jintan”という略語に
「Jenderal Ini Nanti Torong Anak Neguri」(この将軍はやがてわが住民を助けるであろう)
という意味付けを施し、更に人気が高まったのでした。

ちなみにこの略語。”NIPPON”にも同じことがされ、
「Nanti Indonesia Perang Pula Orang Nederland」(インドネシアはオランダ人と戦うだろう)
という意味付けが施されたのでした。




256 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:40:20 ID:ivN(主)





【おまけ:バルチック艦隊】





258 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:41:32 ID:ivN(主)




1905年5月28日。早朝…。


(・露・)「第1戦艦隊、第2戦艦隊は消滅。残るは我が第3戦艦隊のみ…」

(・露・)「しかもうちは他の戦艦隊と違って旧式の戦艦ばっかり…」

(・露・)「あっ、日本軍に発見された」

(・露・)「(アカン)」

(・露・)「ど、どうしよう…」





259 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:42:47 ID:ivN(主)




09時30分。

(・露・)「そうこうしてるうちに敵の主力艦まで集まってきた」

(・露・)「もうだめだ」

(・露・)「一応、第1戦艦隊の生き残り戦艦”オリョール”は夜通しの復旧作業で回復させてる」

(・露・)「第3戦艦隊の旗艦”インペラートル・ニコライ1世”も無傷だけど…」

(・露・)「砲員が多数死傷してる上、照準器は故障して滅茶苦茶」

(・露・)「勝てる気がしないよ」

(・露・)「よし、降伏だ」





260 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:44:00 ID:ivN(主)





10時34分。



(・露・)「白旗だよ~(フリフリ」


(・日・)「………」

(・日・)「………撃て。」

(ドーンドーン)


(・露・)「ファッ!?」





261 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:45:32 ID:ivN(主)




10時53分。



(・露・)「………」

(・露・)「………」

(・露・)「………あっ」

(・露・)「エンジン停止してなかったわ(ポチッ」



戦時国際法に則った降伏にはエンジンの停止が必要不可欠でした。
こうしてバルチック艦隊の降伏は無事受け入れられたのでした。


日本海海戦でのバルチック艦隊には、このような洒落にならないドジッ子エピソードが割と確認されるようです。


【おまけ:バルチック艦隊 完】




278 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:01:27 ID:q57






【前回のあらすじ】





279 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:02:31 ID:q57





(´・ω・`)「”強制栽培制度”の負担がやば過ぎて、もう死にそう…」

(●▲●)「しゃーない、教育を解禁したるわ」

( ・`ω・´)「医師になるためオランダに留学するよ」





280 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:03:53 ID:q57





( ・`ω・´)「ここが学生街の下宿所かー」

( ・`ω・´)「あ、こんにちは!

(^)'・▲・`(^)「…こ、こんにちは」

( ・`ω・´)「もしかして君も学生さん?」

(^)'・▲・`(^)「…そ、そうだよ」

( ・`ω・´)「そうなんだ!よろしくね!」

(^)'・▲・`(^)「…よ、よろしく」





281 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:05:36 ID:q57





下宿所の屋根裏部屋。


( ・`ω・´)「君はどこから来たんだい?」

(^)'・▲・`(^)「…東インドのバンテン地方だよ」

( ・`ω・´)「そうなんだ!ぼくも東インドなんだ!スラバヤの生まれなんだよ!」

( ・`ω・´)「すごい偶然だね!」

(^)'・▲・`(^)「そ、そうだね」




282 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:06:58 ID:q57





( ・`ω・´)「それにしても…」

( ・`ω・´)「ぼくたちは違う民族ってだけで」

( ・`ω・´)「今まで話したことすらなかったんだよね」

( ・`ω・´)「同じ東インドの住民なのにね」

(^)'・▲・`(^)「…そうだね」

(^)'・▲・`(^)「そもそも使う言語が違うし…」

(^)'・▲・`(^)「こうして留学できるほど言語の勉強をしないと」

(^)'・▲・`(^)「話すらできないからね」

(^)'・▲・`(^)「交流がないのも当然かも…」





283 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:08:16 ID:q57




( ・`ω・´)「それじゃ今回の留学はとても良い機会だね!」

( ・`ω・´)「こうなったら夜通し語り明かそうじゃないか!」

(^)'・▲・`(^)「う、うん。そうだね」





285 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:09:43 ID:q57





( ・`ω・´)「…うぅ、夜更かししたから眠いよ…」

(^)'・▲・`(^)「ゆうべはおたのしみでしたね………zzz」

( ・`ω・´)「…うん。やっぱり東インドは独立するべきだ!」

( ・`ω・´)「こんなの絶対に間違ってるし!」

( ・`ω・´)「でも民衆は未だにオランダの支配に反発する意思がない…」

( ・`ω・´)「こうなったらぼくたちで集会を開こう!」

( ・`ω・´)「みんなに目を覚ましてもらうんだ!」

( ・`ω・´)「今こそ立ち上がるときなんだ!」

(^)'・▲・`(^)「………zzz」



【前回のあらすじ 完】





286 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:11:11 ID:q57





これ以降、インドネシアの民族主義運動は活発化していきます。



1910年代:イスラム系大衆団体『サレカット・イスラム』が大規模な大衆動員に成功

1920年代:アジア最初の共産党『インドネシア共産党』が設立。ストライキなどの労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立





287 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:12:32 ID:q57





・豆知識『トコ・ジュパン』その5

第一次世界大戦後、東南アジアではヨーロッパの退潮と入れ替わる形で日本の経済進出が目立つようになり、
やがて日本はオランダ領東インドにとっての最大の輸入先となりました。

日本の財閥によって多くのゴム園が拓かれ、日本人が監督役となり中国人やインドネシア人を雇用しました。
個人が農場を開墾し、野菜や果実栽培に成功したりもしました。


本編を挟み、その6へ続きます。





288 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:13:47 ID:q57





やがて、インドネシアの民族主義運動は最高潮を迎えます。





289 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:15:09 ID:q57




1927年。



( ・`ω・´)「遂にぼくたちの団体、『インドネシア国民党』が始動するよ」

( ・`ω・´)「やっと、ぼくたちの夢が叶う」

( ・`ω・´)「ここがぼくたちのはじまりの場所なんだ」



1927年。スカルノによって『インドネシア国民党』が結成されます。




290 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:16:34 ID:q57




1928年。

オランダ領東インドの首都バタヴィア。

第2回インドネシア青年会議。

ここに東インド中から青年たちが集いました。





291 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:17:55 ID:q57





( ・`ω・´)「お集まりの皆さん、本日はお越し頂きありがとうございました」


( ・`ω・´)「それでは最後に三つの誓いを読み上げさせて頂きます」




292 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:19:09 ID:q57




( ・`ω・´)「一、我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。」




293 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:20:09 ID:q57




( ・`ω・´)「二、我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。」




294 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:21:11 ID:q57




( ・`ω・´)「三、我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。」




295 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:22:19 ID:q57





『青年の誓い』

 『唯一の祖国インドネシア』

 『唯一の民族インドネシア民族』

 『唯一の言語インドネシア語』

民族独立が掲げられ、誓いが高らかに宣言された瞬間。


それはインドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えた瞬間でした。



( ・`ω・´)「本日はお集まり頂きありがとうございました。それではまた次回の会議でお会いしましょう。」





296 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:23:46 ID:q57




・豆知識『国歌 インドネシア・ラヤ』

第2回インドネシア青年会議。その休憩時間。
作曲家スプラットマンは議長に「歌を歌わせて欲しい」と懇願しました。
そして彼は自らのヴァイオリンで初めて”インドネシア・ラヤ”を披露しました。

演奏はアンコールの連呼に迎えら、その後もこの歌は数々の集会で歌われたそうです。
議論が険悪になった時も、これが演奏されると途端に和やかになったとすら言われています。

そうして、この歌はインドネシアの独立・解放を求める人々のシンボルとなりました。


なお、この歌は後にオランダによって禁止されることとなります。







297 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:24:44 ID:q57




・豆知識『インドネシア』その1

実は”インドネシア”という用語は昔からあったものではありません。
地理学上の学術用語として、1850年代よりヨーロッパで使用され始めた言葉です。

オランダは”東インド”と称していましたが、”東インド”とはヨーロッパ目線による地域名です。(>>23)
民族主義者にとって、植民地支配の用語そのままの”東インド”は不愉快でしかありませんでした。
そしてその頃、”インドネシア”という言葉が新たな響きを持って現れたのでした。

”インドネシア”という用語は民族主義の自覚をもたらしました。
在欧留学生の『東インド協会』は『インドネシア協会』に改名。
そして”青年の誓い”によって、”インドネシア”という言葉は政治的意味合いを持つようになりました。




298 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:25:56 ID:q57




・豆知識『インドネシア』その2

反オランダの政治団体は当然”インドネシア”という名称を積極的に名乗りましたが、
親オランダの政治団体ですら”インドネシア”を名乗ったそうです。

オランダの植民地政庁は”インドネシア”という用語に警戒こそしましたが、禁止はしなかったそうです。
ですが、公式には”東インド”と”原住民”で押し通しました。


本編を挟み、その3へ続きます。




299 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:26:35 ID:a74



やっぱ名前って大事だわ


300 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:27:23 ID:q57




しかし。



やがて民主主義運動には暗雲が立ちこめ始めます。




301 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:28:38 ID:q57




”インドネシア共産党”。
彼らの度重なるストライキは、オランダの逆鱗に触れます。

ストライキを主導した幹部たちは次々に国外追放されました。




302 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:29:54 ID:q57




やがて、幹部をなくした共産党は暴走を始めます。



( `(エ)´)

( `(エ)´)「ストライキじゃ!ストライキじゃ!」

( `(エ)´)「印刷工場、病院、港湾はみんなストライキするんやで!」





304 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:31:20 ID:q57




更に…。


( `(エ)´)「もう我慢ならん!ワイらインドネシア共産党は武装蜂起するで!」

( `(エ)´)「ワイらは”インドネシア共和国”を宣言するんや!」

( `(エ)´)「手始めに国家機関の人間の住宅を襲撃するで!」

( `(エ)´)「弾薬倉庫は片っ端から爆破じゃ!」

( `(エ)´)「あ、共産党に報酬の2/3を上納するなら集団強盗も認めるで」

( `(エ)´)「襲え襲え!革命じゃ!」





305 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:32:54 ID:q57




( `(エ)´)「フハハ!これからはワイらの天下じゃ!」





(●▲●)「アカンなぁ」

( `(エ)´)「あっ」

(●▲●)「これはアカンよなぁ」

(●▲●)「粛正やろなぁ」

( `(エ)´)「」



共産党はジャカルタ刑務所、郵便局の占拠に失敗。

共産党の武装蜂起は瞬く間に鎮圧され、逮捕者13000人、投獄者4000人を出し、指導者1300人が流刑に処されました。




306 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:34:05 ID:q57




そして…。


(●▲●)「少しおいたが過ぎたなぁ」

(●▲●)「これは運動自体を取り締まらんといかんやろなぁ」

(●▲●)「当然、指導者は全員逮捕やろなぁ」

(●▲●)「二度と変な気起こさんよう、拷問せなアカンやろなぁ」


オランダは全ての民族主義運動を非合法化しました。





307 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:35:36 ID:q57





1929年12月29日。


(●▲●)「一斉検挙じゃ!国民党の幹部は片っ端から逮捕や!」

( ・`ω・´)「ファッ!?」

(●▲●)「あんさん、ちょ~っとやりすぎたなぁ?」

(●▲●)「謝っても許さへんで?」

(●▲●)「覚悟しいや」

( ・`ω・´)「そ、そんな!」

( ・`ω・´)「これは不当逮捕だ!裁判で訴えてやる!」

(●▲●)「ま、続きはム所で聞くさかい」





308 :名無しさん@おーぷん :2015/03/19(木)22:36:36 ID:q57






国民党を結成したスカルノ、ハッタといった運動家は全て逮捕、拷問され、やがて流刑となりました。



こうして、インドネシアの民主主義運動は終焉を迎えてしまったのでした。


 『インドネシア独立運動編 完』















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