都心部のバス停を訪ねていると、昭和40年代に消滅した都電の停留所名が、そのままバス停に受け継がれている事例が少なくありませんが、今回はそのうちのひとつ、港区の「墓地下」バス停をご紹介します。
このバス停は、青山霊園南端部の外苑西通り上に立っていますが、ここはかつての都電7系統の専用軌道の跡地で、都電時代の墓地下停留所が、そのままバス停として現在まで受け継がれています。およそ都心の、それも西麻布の目と鼻の先という立地がウソのようなネーミングですが、都電時代の忘れ形見かと思うと、私のような散歩者には大変貴重なバス停に見えてきます。

バス亭のすぐ脇からは、桜並木で知られる霊園中央の目抜き通りが、一直線に北へと伸びています。この通りは緩やかな上り坂となっていますが、台地上の斜面に展開する青山霊園の南端部は、地形的に文字通り「墓地」の「下」であり、かつての専用軌道が台地に沿った谷地に敷かれていたことなども、現地を歩いてみて改めて感じ取ることができます。
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青山霊園一帯は、江戸期の青山氏の屋敷地跡で、明治7年から市民向けの共葬地となり、後の青山霊園の前身となりました。国内における公営墓地の先駆けで、尾崎紅葉、国木田独歩、斎藤茂吉、北里柴三郎、乃木希典、大久保利通など、多数の文人や学者、政治家らの墓石が並ぶ他、忠犬ハチ公の墓もここにあります。

一方、バス停の東側にあたる六本木7丁目一帯は、鉄条網で囲われた米軍施設です。都心部にこのような敷地があることはあまり知られていないかもしれませんが、ここは二・二六事件などで知られた旧陸軍麻布三連隊の跡地で、戦後の米軍による接収後、その一部がいまだに返還されていないというのが現状のようです。

作家の田宮虎彦が昭和25年に発表した『絵本』に、こんな一節があります。「いつか、隣の部屋の中学生が、『ねえ、――さん、墓地下の電車の停留所の名前、考えるとちょっと変でしょう、そら、青山一丁目から、人が一人も乗り降りしない墓地裏になって、墓地下になって、そして霞町――』といってから、――墓地裏、墓地下、霞町とくりかえしていたのを思い出した」
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バス停付近をぶらぶら歩いていると、「仏蘭西料理 龍土軒」の看板が目に入ってきます。明治33年開業の東京で最も古いフランス料理店で、明治から大正期にかけては高級軍人や文化人のサロンとして知られ、田山花袋や国木田独歩らの自然主義作家の集会場ともなり、「自然主義は龍土軒の灰皿の中から生れた」と囁かれるほどだったと伝えられます。残念ながら、現在は建替え工事による休業中ですが、新装オープンの日も近いようです。
※龍土軒の「土」は、正しくは右下に「、」が入ります。