放水路バス停都心で「放水路」といえば、荒川放水路が代表例かと思いますが、荒川が隅田川(旧荒川)の水害対策として人工的に造られた放水路であることを、今は知る人が少なくなったように思います。
「荒川放水路」もしくは「放水路」という呼称自体が、都心では既に死語かもしれませんが、バス停の世界では、赤羽付近の荒川沿いに、その名もズバリ「放水路」というバス停が存在します。今回は、この「放水路」バス停をご紹介しながら、荒川沿いの散策を楽しんでみたいと思います。
2_荒川右岸の河川敷
まずは、荒川の基礎知識を。明治43年、首都圏を襲った未曾有の長雨は、荒川(現隅田川)の大氾濫を引き起こし、東京都心は下町を中心に甚大な水害被害に見舞われました。その対策として大正2年に着手されたのが、荒川放水路の開削です。およそ17年の歳月を費やし、昭和5年に全長約22キロという長大な人工河川が完成しました。これが現在の荒川で、地図上では本流との分岐点となった赤羽の岩淵水門から下流が荒川放水路と表記され、一般にも放水路の名で親しまれてきました。その荒川放水路が行政区分上も荒川の本流とされたのは、昭和40年のことで、同時に旧本流に正式に隅田川の名が使われるようになりました。従って、このときを境に放水路の三文字は地図上から姿を消し、荒川と隅田川の呼称が徐々に定着していきました。

そんな時代変遷に逆らうかのように、今も放水路の名を堂々と掲げたバス停が、北区にある国際興業バス[赤06]系統の「放水路」バス停です。赤羽駅を発車したバスは、新荒川大橋の南詰を左へ曲がると、間もなく放水路バス停に到着します。

バス停前の土手を上ると、視界が一気に開け、新河岸川を含めた荒川右岸の河川敷の景観が広がります。上流側にはJRの鉄橋が、下流側には岩槻街道の新荒川大橋が見えます。と、ここで疑問がひとつ。というのは、放水路の呼称は本流との分岐点となった岩淵水門から下流でのものでしたが、この場所は水門の上流に位置しています。とすると、バス停の指す放水路とは、荒川ではないのでしょうか。ここで思い起こすのが、私の好きな永井荷風の随筆『放水路』です。荒川放水路完成後の昭和11年の著作ですが、作中ではここからさらに上流の戸田橋付近も放水路として描かれています。荒川放水路の開削にあたっては、戸田橋付近でも大規模な河川改修工事が行われましたので、放水路独特の荒涼とした景観との一体性で捉えると、岩淵水門上流もある程度までは放水路の一部と考えていいのかもしれません。
3_放水路土手下バス停さて、ここで改めて地図を見ると、ここから7~8キロ程下流の西新井橋付近に、放水路の名を残すバス停がもうひとつあることに気付きます。浅草と足立梅田町を結ぶ都営バス[草41]系統の「放水路土手下」バス停です。赤羽から日暮里へ、そして京成電車に乗り換え、町屋駅からこのバスに乗り込むと、バスは西新井橋から荒川左岸の土手を下り、放水路土手下バス停に到着します。

荷風の『放水路』では、放水路の開削工事により、昔ながらの田舎道や古い寺が消滅したり移転したりする様を見ることを嫌った荷風が、大正3年を最後に荒川上流域の散策から遠ざかっていたことが書かれていますが、結果的に放水路完成後の昭和11年、荷風は久しぶりに江北橋から西新井橋方面を訪ね、「静に曾遊の記憶を呼返」すひと時を過ごしています。かつての荷風がこの地を訪ねた目的のひとつが、古くから伝わる六阿弥陀詣であり、江北橋付近の荒川流域一帯が古くから六阿弥陀の里と呼ばれました。諸国巡礼中の行基が足立長者の持つ霊木から六体の阿弥陀像を彫り出し、この地の六つの寺に安置したと伝えられ、それらを春秋の彼岸に参詣して回るのが六阿弥陀詣といわれます。
4_荒川沿いの銭湯のある路地作中に名前が出てくる第二番恵明寺は、放水路開削による移転も無く、荷風が訪ねた当時と同じ場所に、今も静かな佇まいを見せています。ただし、放水路土手下バス停からは少々距離があるので、今回は六阿弥陀の里に続く荒川左岸の街並みを、ぶらぶらと歩くのみとしておきます。この付近は、迷路のように曲がりくねった細い道が縦横に巡り、昭和の面影を残した家並みや路地が随所に見られ、角を曲がるとふいに銭湯が現れたりと、これといった名所が無くとも、私のような散歩者には興味の尽きない場所です。
5_西新井橋付近の荒川最後に、西新井橋北詰の土手に上ってみます。荷風が好んで荒川放水路に足を向けた理由は、「蘆荻と雑草と空との外、何物をも見ぬこと」であり、「殆ど人に逢わぬこと」、そして「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいため」であり、「平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいため」といったことでしたが、現代人にとっても、ほんのひととき現実を忘れ、自分だけの時間に没頭するには、荒川土手は格好の場所かもしれません。