櫻の賦の碑
JR王子駅の南側に、古くから桜の名所として知られる飛鳥山公園がある。公園内にはいくつかの石碑が建てられているので、まず石碑巡りから始めよう。
「櫻の賦の碑」は、佐久間象山の「桜の賦」を刻んだ石碑である。「桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き、人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈し、その名声は中国、インドにまで響き、清く美しいさまはほかに比類がない」と日本を讃えた。当時、象山は吉田松陰の密出国に連座して蟄居中であったが、「自らの愛国の志操は堅く、この名華の薫香のように遠くまで聞こえる」と結んでいる。石碑は屋根で覆われているが、明治十五年(1882)に建てられた石碑はかなり傷んでおり、ほとんど文字は読み取れない。

船津翁の碑紙の博物館


ほかには、日露戦争を記念した「明治三十七八年戦役記念碑」「船津翁の碑」などの石碑がある。船津翁(船津伝次平)の碑は、小松宮彰仁親王の篆額、文は品川弥二郎による。船津伝次平は明治十年(1877)駒場に農学校農場が開かれると、内務卿大久保利通の懇請を受けて教師となり、継いで農商務省巡回教師として全国を巡って農事改良に努めた。明治三十一年(1898)六十六歳で死去。
王子は、洋紙業発祥の地でもある。明治五年(1872)渋沢栄一がイギリスより機械を導入し、その後この地で抄紙会社を創業した。のちの王子製紙である。もともと紙の博物館は、旧王子製紙の敷地(現・国立印刷局王子工場)にあったが、高速道路工事により移設されたものである。

渋沢史料館青淵文庫


晩香廬渋沢栄一像


飛鳥山公園には3つの博物館が開設されている。その一つが渋沢栄一史料館である。渋沢栄一は維新後、大蔵省に仕えたが、辞職して第一国立銀行頭取に就任し、銀行、鉄道、製紙、ガス、煉瓦、ホテル、ビール、建設、運輸、印刷、汽車、汽船などあらゆる産業の創立に関与した。飛鳥山の地に別邸を構えたのは明治十一年(1878)のことで、明治三十四年(1901)から昭和六年(1931)に九十一歳で亡くなるまでここを本邸とした。
渋沢史料館には渋沢栄一の九十一年に渡る生涯が分かりやすく展示してある。中でも注目は渋沢栄一の演説のレコードが残されていること。肉声を聞いたときには感動する。

史料館を出るとその前は渋沢邸跡である。震災や戦災で大半の建物は焼失してしまったが、青淵文庫、晩香廬は手入れされて当時のままの姿を伝えている。
青淵文庫は、栄一の八十歳のお祝いと子爵への昇格のお祝いを兼ねて寄贈された書庫である。竣工は大正十四年(1925)。青淵は栄一の雅号である。論語をはじめとした漢籍が集められ、そのコレクションは六千冊に及んだ。
晩香廬は、栄一の喜寿を祝って清水組(現在の清水建設)から贈られた接待館である。大正六年(1917)の竣工。内部には暖炉、薪入れ、火鉢など洋風の家具を備えた洋風茶室である。晩香廬の和風庭園には渋沢栄一像が建てられている。

西福寺六士銘記碑円顕妙楽信女零位
お馬塚


西福寺には、王子近辺で戦死した彰義隊の敗残兵を葬った「六士銘記碑」がある。子供の背丈くらいの小さな石碑なので要注意。
西福寺境内には、お馬塚と称する興味深い石碑がある。「よさこい節」に歌われるお馬は、明治後土佐を離れて上京し、豊島二丁目に住んでいたという。明治三十六年(1903)、六十六歳で波乱の生涯の幕を閉じた。西福寺寺崎家の墓地に合祀されていたことが過去帳で判明し、ここにお馬塚が建てられることになった。