虎ノ門遺址
虎ノ門交差点の北東に虎ノ門遺址の碑が置かれている。碑の上には、一瞬猫かと見間違ってしまうが、よく見ると虎の像がある。江戸時代、虎ノ門があったのは、もう少し北側、現在の日本郵政ビルの前辺りという。往時の虎ノ門は、石垣に囲まれ、櫓を備えた枡形門だったそうである(黒田涼「江戸城を歩く」(祥伝社新書)。
乃木将軍由縁地金毘羅宮江藤新平遭難遺蹟碑新聞創刊の地


地下鉄虎ノ門駅周辺より北側には、外務省や財務省などといった官庁が建ち並んでいるが、虎ノ門交差点の南西角にいかにも場違いな感じで金毘羅宮がある。もともとここには讃岐丸亀藩の屋敷があった名残である。金毘羅宮の近くにこれまた場違いな石碑が一つ建てられている。道行く人は多いが、この石碑に足を止める人は少ない。これが江藤新平遭難遺蹟碑である。この石碑の建てられたのは、佐賀の乱で賊名を着せられた江藤新平が特赦により復権した明治二十二年(1889)二月のことであった。
江藤新平がこの地で襲撃されたのは、明治二年(1869)十二月二十日の夜のことである。その日、葵町佐賀藩邸に伺候した江藤は、珍しく深酔いし駕籠で帰路に着いた。虎ノ門に差し掛かった午後十一時頃、刺客六人が江藤の駕籠に襲いかかった。江藤は右肩に重傷を負ったが「無礼者!」と一喝すると、刺客は逃げ去ったという。襲撃者はいずれも佐賀藩の足軽で、江藤が佐賀で断行した藩政改革に不満を募らせていたと言われる。
明治二年というと、一月には横井小楠が京都で暗殺され、九月には大村益次郎が遭難するなど(十一月に死亡)、政府の高官が次々と凶刃に倒れる異常事態に直面していた。そこへきて江藤が襲われた。新政府の衝撃は尋常ではなく、天皇から見舞金百五十両が下賜されることになった。江藤新平の名前が新政府に重きを成すようになったのが、この事件の最大の成果かも知れない。
江藤新平遭難遺蹟碑の傍らに、新聞創刊の地の碑が置かれている。明治七年(1874)十一月に子安峻らがこの地で新聞を発刊したことを記念したものである。知識人向けの大新聞に対して、ふり仮名を施した大衆向け新聞はサイズが小さく、当時は小新聞と呼ばれた。読売新聞はその小新聞の始祖である。

虎ノ門二丁目の交差点付近、セブンイレブンの前には乃木将軍由縁地の石碑が建っている。乃木希典は、西南戦争終戦直後の明治十一年(1878)、第一連隊長に任じられてほどなく、この地に住宅を購入し、静子夫人と新居を構えた。翌明治十二年(1879)八月、長男勝典誕生とともに転居するまでの一年足らずをこの地で過ごした。



大倉喜八郎像大倉鶴彦翁之略傳


虎ノ門三丁目の交差点を西に進むと、ホテル・オークラに行き着く。ホテルに隣接している大倉集古館は、政商として活躍した大倉喜八郎が集めた日本、中国の古美術、漢籍などを展示した私立美術館である。開館は大正六年(1917)で、私立美術館としては我が国で最初のものである。
大倉喜八郎は、越後新発田の出身。江戸に出て乾物屋を営んでいたが、鉄砲店に転業。これが当たって戊辰戦争で財を成した。維新後は、大倉組商会を設立して台湾出兵、西南戦争でも政府を助けて成長し、財閥の基礎を作った。ホテル事業のほか、大倉土木組(現・大成建設)、日清製油(現・日清オイリオグループ)などを設立した。一方で公共事業や教育事業にも協力を惜しまなかった。昭和三年(1928)死去。





工部大学校址碑米沢藩上杉家江戸藩邸跡陸奥宗光像


再び虎ノ門交差点に戻る。交差点の北西角、現在霞ヶ関コモンゲートの一帯には、江戸時代には延岡藩邸があった。維新後、工業分野における人材育成を目的として工学校が開設された。明治十年(1877)には工部大学校と改称された。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が、外国から招聘された教師によって教授された。工部大学校は、その後東京大学工学部に発展している。工部大学校が移転した後、この地は帝室博物館、東京女学館、さらに会計検査院に引き継がれたが、さすがに当時の面影は残っていない。

外務省には不平等条約の改正に尽くした陸奥宗光の銅像が建っている。
外務省門前の警備員にこの銅像の写真を撮影したいというと、外務省の許可を得てもらわないと中には入れない。外だったら撮影しても良いというので、柵越しに写真を撮ることになった。
更に北に歩くと、桜田門が近い。桜田門の交差点の東南の角には米沢藩上杉家江戸藩邸跡のモニュメントが置かれている。上杉家の上屋敷址である。このモニュメントの背後は法務省旧本館である。この建物は旧司法省の庁舎として明治二十八年(1895)に完成したもので、空襲によってレンガ壁を残して全焼したが、改修工事を経て昭和二十五年(1950)より法務省本館として利用されることになった。平成六年(1994)には重要文化財に指定されている。