上野公園 西郷隆盛銅像
上野公園 西郷隆盛銅像
 有名な上野の西郷隆盛像は、高村光雲の作で明治三十年(1897)完工。明治二十二年(1889)、明治天皇の特旨により西郷隆盛の賊名が除かれると、感激した旧友の吉井友実らが醵金して上野に銅像が建立されることになった。吉井友実は明治二十四年(1891)に逝去したため、銅像の完成を見ることはできなかった。連れている犬は西郷の愛犬ツンである。モデルは仁禮景範(薩摩藩士。第二次伊藤博文内閣の海軍大臣)の飼っていた薩摩犬と言われる。

彰義隊の墓東照宮小松宮彰仁親王像


 上野公園の一角に西郷像が建てられたのは、西郷が官軍の大総督府参謀として上野戦争で彰義隊を撃破したことを顕彰したものである。陸軍大将の盛装で乗馬姿の像が計画されたが、賊軍大将の軍服姿はおだやかでない、という理由で変更されたという。

西郷像のすぐ近くには彰義隊の墓がある。勝者と敗者がこれほど近くで相対しているというのは、皮肉というほかはない。敗者である彰義隊士の遺体はしばらく放置されていたが、南千住住職仏磨らの手によって荼毘に付され、明治二年(1869)になって寛永寺子院寒松院と護国院の住職により密かに地中に埋葬された。高さ数十センチの目立たない自然石の墓はそのときに建てられたものである。背後にある立派な墓は、明治十四年(1881)になって、元彰義隊士小川興郷(椙太)らによって建てられたものである。「戦死之墓」の文字は、山岡鉄舟の筆。上野戦争から十年以上もの月日が流れていたが、それでも新政府を憚って彰義隊という文字は刻まれなかった。近くにある清水観音堂には、上野戦争の様子を描いた大きな絵馬が掛けられているので、時間に余裕があれば見ていただきたい。

 上野公園内にある東照宮は、藤堂高虎の創建である。祭神は徳川家康と徳川吉宗、そして昭和四十二年(1967)になって徳川慶喜が合祀された。本殿前には新門辰五郎が寄進した水舎がある。拝観料200円で本殿に上がることができる。本殿内には徳川家康の陣羽織や慶喜の書画など数点が展示されており、一見の価値がある。

 東照宮前の参道を進むと、騎乗姿の小松宮彰仁親王の銅像に出会う。小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王の第八王子で、安政五年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称していた。慶應三年(1867)二十二歳のとき勅命により還俗し、東伏見宮嘉彰親王と名乗った。鳥羽伏見の戦いには征東大将軍として参戦。戊辰戦争にも会津征討越後口総督として従軍した。西南戦争中に博愛社が結成されると、その総長に就任。博愛社が日本赤十字社に発展すると、総裁として赤十字活動に貢献した。明治三十六年(1903)五十八歳にて死去している。

寛永寺寛永寺旧本坊表門


上野戦争記碑東叡山輪王寺門跡


 当時、上野公園一帯は寛永寺の境内であった。寛永寺は規模を縮小したものの、今なお広い境内と墓地を有する。墓地には、四代将軍家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の六代の将軍が葬られている。残念ながら、徳川家の墓所は非公開となっている。本堂の前には、彰義隊の結成から上野戦争に至るまでの顛末を記録した高さ5メートルを超える巨大な上野戦争記碑が建てられている。

 寛永寺は上野戦争でその大半を焼失し、唯一表門だけが戦火を逃れた。この表門は明治十一年(1878)帝国博物館が建設されると表門として転用され、その後国立博物館の改築に伴い現在地に移設された。門扉には上野戦争当時の弾痕が生々しく残されている。
 表門のそばに「東叡山輪王寺門跡」と記された石碑が建っている。家康に重用された僧天海のあと、天皇の皇子が天台座主、門跡として入ることになり、輪王寺宮と呼ばれた。十二代目の門跡が輪王子宮公現法親王、のちの北白川宮能久親王である。能久親王は彰義隊に担がれ、更には奥羽列藩同盟軍事総督と仰がれた。吉村昭「彰義隊」の主人公である。小説に描かれるほど、数奇な人生を送った。

大正寺誠恪院殿嘉訓明弼大居士
(川路聖謨の墓)


 上野公園を出て不忍池を横断して、西側に出た寺町の一角に大正寺がある。ここには幕臣川路聖謨の墓がある。川路は、豊後日田代官所の属吏の子として生まれ、父が幕府の徒士として取り立てられたことに伴い江戸に出た。六歳のとき小普請組川路光房の養子となり、次第に頭角を現した。老中大久保忠真、水野忠邦に重用されて、奈良奉行、大阪奉行等を経て、ペリー来航の前年勘定奉行に昇り、ロシア全権使節プチャーチンとの交渉では幕府全権に任命された。当時を代表する開明的幕臣の一人であったが、慶応四年(1868)三月十五日、江戸開城の朝、ピストル自殺を遂げた。最期まで幕臣としての矜持をもち続けた男であった。