熊本県氷川町を貫く国道3号線。ひっきりなしに、クルマの波が押し寄せては消えていく。
ガソリンスタンドやホームセンター、コンビニが軒を並べる風景の中に、時間が止まってしまったような一角があった。
今にも剥がれ落ちそうな板壁に、「2台目テレビもゼネラル」の看板が貼られた廃屋は、辺りの喧騒をよそに、ひっそりとたたずんでいる。
看板に描かれているのは、昭和35年(1960年)に八欧電機株式会社(現・株式会社富士通ゼネラル)より発売された、14型の白黒テレビ「Xライン」 のシリーズ機である。
コピーは“2台目テレビも”となっており、“2台目目テレビは”じゃないところが、メーカーの強気の姿勢を表わしている。昭和30年代も後半になると、テレビは一家に2台の時代になりつつあったようだ。
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しかし、家電市場のそんな戦略とは裏腹に、我が家にテレビがやってきたのは随分遅く、昭和39年(1964年)のことだ。
なんでこんなこと覚えているのかというと、僕が小学校に入学した年であり、東京オリンピックが開催された年だからだ。
それまでは、裕福な隣の家に入りびたって(笑)、いわゆる“もらいテレビ”をしていた。狭い居間に鎮座した、ようやく手に入れたテレビで初めて観た番組は、オリンピックの開会式だったことを鮮明に記憶している。
両親、妹と肩を寄せ合いながらブラウン管を見つめる瞳は、きっと無垢に輝く眼だったに違いない(笑)。
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さて、もうひとつ紹介したいのが、滋賀県野洲町で見つけたサンヨーテレビの看板。
調べてみると、昭和36年(1961年)発売の14-F26型というテレビで、販売価格は58,000円だったということが分かった。
この年のサラリーマンの平均給与は月額4万円といわれているので、生活水準からすると、かなりの高額商品だったようだ。
すでにカラーテレビも発売されていたが、まだまだ白黒テレビの普及率が拡大しつつある時代で、多くのメーカーが競合しあった4本足のスタイルは、当時の定番だったようだ。

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島根県雲南市(2008.8撮影)

…テレビの思い出話は尽きないので、このあたりにしておこう。
輸出拡大で日本経済が急成長した昭和30年代前半、白黒テレビと洗濯機、冷蔵庫の家電3品を「三種の神器」と呼んで、庶民の新しい生活の象徴として祭り上げていた時期があった。
まさに、努力すれば手の届く夢。
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島根県安来市で見つけた「ゼネラル洗濯機」の看板は、そんな時代の象徴だ。
当時のカタログを見ると、大型反転渦巻式EW-4600型という機種で、発売は昭和34年(1959年)、販売価格は23,800円である。よく見ると、ハンドルレバーと脱水用のローラーがついている。
実は、我が家でもこのタイプの洗濯機を使っていた。もの心ついた頃、母のお手伝いをすることの一番の楽しみが、これだった。
ローラーから出てくる、のしイカのようにぺちゃんこになった衣類を見るのが面白くて、何度も何度もレバーを回した。今となっては懐かしい思い出だ。
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新潟県妙高市(2009.5撮影)

さて、「三種の神器」の最後は、冷蔵庫である。我が家でも購入が遅かった家電製品で、テレビや洗濯機と比べるとインパクトが薄い。
冷蔵庫の普及は「三種の神器」の中でも一番遅かったとされているが、その理由はおそらく、当時の庶民の購買行動に関係していると思う。
買い物かごを下げて、食料品店や市場でその日に食べる分だけ買うという毎日だったから、今のようにまとめ買いをするということはなかったし、冷蔵・冷凍する必要もなかった。
夏になるとアイスキャンデーも売り来た。氷屋のおじさんが、むしろで包んだ大きな塊を自転車に積んでのんびりと走っていた。
強いてあげれば、親父の晩酌のビールをどう冷やすか、という難問(?)もあったが、水を張った金タライに僕らが飲むラムネと一緒に浮かべてあった。

…夏の夕方、飲み終えた後は、そのまま行水である(笑)。

  • つちのこ
  • 琺瑯看板探険隊が行く
  • 1958年名古屋生まれ。“琺瑯看板がある風景”を求めて彷徨う日々を重ねるうちに、「探検」という言葉が一番マッチすることを確信した。“ひっつきむし”をつけながら雑草を掻き分けて廃屋へ、犬に吼えられながら農家の蔵へ、迫ってくる電車の恐怖におののきながら線路脇へ、まさにこれは「探検」としか言いようがないではないか。