小石川後楽園
 水道橋駅の北西のビル街に、小石川後楽園の庭園が広がっている。後楽園は寛永年間水戸徳川家の初祖徳川頼房によって作られ、二代光圀によって完成された廻遊式築山泉水庭園である。後楽とは、中国の范文正の「先憂後楽」の語によったもので、「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆が皆安楽な日を送るようになって後に楽しむ」ということで、光圀の政治信条を表したものである。都心にこのような静謐な庭園が存在していることが不思議なほどの別世界である。庭園からは東京ドームの屋根が見え、周囲を走る車の音が耳に入って来るが、それが無ければ江戸時代に逆戻りしたかのような錯覚を楽しむことができる。

後楽園後楽園内
藤田東湖先生護母致命之処碑
白山通り
藤田東湖護母致命の処説明板


 庭園の正門から一番遠い築山に「藤田東湖先生護母致命之処」碑が建てられている。この石碑は、もともとJR水道橋駅から白山通りに出て後楽園遊園地の東南辺りにあったもので、現在、そこには説明板がある。道路の拡幅工事に伴って後楽園内に移設された。幕末において小石川の水戸藩邸は尊王攘夷思想のメッカ的存在となった。思想の発信者であった藤田東湖は、安政の大地震で倒壊した建物の下敷きとなり圧死した。そのとき東湖は身をもって母をかばったと伝えられる。

源覚寺織部正爽烈堀府君之墓
(堀利熙の墓)


 地下鉄春日駅を過ぎて左に折れると、「こんにゃくえんま」として知られる源覚寺がある。源覚寺の所蔵する木造閻魔坐像は眼病の効験があって、平癒した老婆が感謝の印しとしてこんにゃくを供え続けたことから「こんにゃく閻魔」として信仰を集めた。本堂の左右に墓地があり、左側の墓地の奥に堀家の墓域がある。そこに幕末の開明的官僚堀織部正利熙が眠る。
堀織部正利熙は、万延元年(1860)に四十三歳という働き盛りにして世を去ってしまったので、文久以降の激動の幕末史には登場しない。そのため知名度は今一つである。ペリー来航以降、外交の第一線で活躍し、露英仏との通商条約締結では全権を務めた。ついでプロシアとの条約交渉に入り、条約案がほぼまとまったというとき、突然自宅で切腹して果てた。自殺の原因は今もって諸説あって定まらない。前夜、老中安藤対馬守信正と激しい口論があったことが原因とも言われている。

後楽園伝通院本堂
処静院跡石柱
不許葷酒入門内
清河八郎正明之墓
(右)左は愛人である阿蓮之墓
特命全権公使贈正三位澤宣嘉墓


 源覚寺を出て、淑徳学園に向かって歩を進めると、小石川伝通院に出会う。小石川伝通院は、新選組の前身となった浪士組が集められた場所である。時は文久三年(1863)二月八日。浪士約250人は七組に分けられ京を目指して出立した。のちにこの浪士隊から近藤勇ら試衛館一派および芹沢鴨らが分離して京に残り新選組が生まれた。
 厳密に言えば浪士たちが集められたのは、伝通院塔頭処静院(しょじょういん)であるが、焼失して現存していない。伝通院の門前に処静院の石柱が残されているだけである。
 浪士隊結成を幕府に建言したのは、出羽浪士清河八郎であった。
 清河八郎は本名斉藤元司というが、出羽東田川郡清川村の出身だったため、清河と名乗った。江戸への遊学を志したが、反対されたため出奔して上京。東条一堂、安積艮斎に師事したあと、昌平黌に入門した。一方で剣を千葉周作の玄武館で修業し、北辰一刀流目録を得ている。その後自ら神田お玉ヶ池に文武指南所を開いた。
 浪士隊が京に到着すると同時にこれを天皇親卒の攘夷軍に転換しようとしたため、浪士隊は急遽江戸に引き上げさせられた。江戸に戻った浪士隊は新徴組と称して江戸の治安維持に当たることになった。以来、清河八郎は幕府に狙われる身となり、文久三年(1863)四月麻布一の橋にて佐々木只三郎らに暗殺された。三十四歳であった。
 清河八郎の隣には清河の愛人で、捕らえられて獄死した蓮の墓がある。「貞女阿蓮之墓」と刻まれている。
 伝通院には、生野の変で首領として担がれて決起した澤宣嘉の墓もある。澤宣嘉について語り出すと止まらないので、今日はこの辺で・・・。