私の提唱する「バス停地名学」は、地名の淘汰や景観の変遷が著しい東京のような大都市でこそ醍醐味ありと考えていますが、その東京の中心にある東京駅から間近の場所に、今回ご紹介する「通り3丁目」バス停があります。
そこは、東京駅八重洲口から大丸を背に、八重洲通りを東へ向かうバスが最初に停まるバス停で、晴海、深川方面へのバスが頻繁に通過しています。この「通り」がどの通りを指すかといえば、それは八重洲通りではなく、実は東海道を指しています。バス停のある交差点で八重洲通りを南北に横切る中央通り(国道15号)が、旧東海道の道筋であり、北へ歩けば日本橋、南へ歩けば京橋へと続いています。
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地名として見た場合、「り」の送り仮名は不要のようで、江戸開府から間もない慶長8年(1603)に、江戸の商業地のパイオニアとして、通1~4丁目が起立しました。東海道の起点日本橋から続く街道沿いの細長い町域で、江戸期以降の時代変遷の中、ここは常に首都を代表するメインストリートとしての顔を持ち続けてきた場所でした。町名としては昭和48年の住居表示施行時に消滅しましたが、江戸東京の原点ともいえるこの場所で、都営バスが頑なに通り3丁目のバス停名を残していることに、私のような散歩者はとても意義深いものを感じて嬉しくなります。

 江戸期のこの界隈の切絵図を見ると、通3丁目の裏側、すなわち東海道から一歩裏へ入った町家には、数奇屋町、檜物町、箔屋町などといった、職人町を示す町名がいくつも並んでいたことに気が付きます。
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そうした当時の街並みを想像しながら、旧東海道筋の中央通りを歩いてみるのも面白いかもしれません。
整然とビルの並ぶ中央通りを日本橋方向へ向かうと、右手に日本橋通郵便局がありますが、これなどは送り仮名の「り」を付けない正当な旧町名を残した局名といえそうです。その手前の養珠院通りを右へ入ると、左側に秤座跡の碑があります。江戸期の秤座は、江戸と京都の二箇所に置かれ、それぞれ幕府公認のもと、秤の製造から販売までの権利を独占し、量目の統一化を実現していました。江戸の秤座は甲州(現山梨県)出身の守随家が代々その任にあたり、現在も計量器メーカーとして家業は受け継がれているといいます。
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一方で、八重洲通りの南側を歩いてみると、東京駅の新幹線ホームを背景に、小学校の建物が視界に入ってきて驚かされます。この立地に、昭和四年竣工という復興小学校としての校舎が残され、現在も現役で使用中です。「昔の地名」を守るバス停だけでなく、「昔の姿」を守る建築物のひとつひとつも、東京という大都市にあってこそ、「残す」意義が深いのではないかと、改めて考えさせられます。