今回は、文京区の崖下の私娼窟跡地を散歩します。
本郷台地の西側の崖下に位置する丸山福山町(現在の文京区西片一帯)には、日露戦争の頃、「新開地」と呼ばれる歓楽境ができ、そこには銘酒屋と呼ばれる私娼窟がありました。

銘酒屋とは、「御料理」の看板を掲げているものの料理は出さず、空瓶の銘酒を棚に並べて飲み屋を装いながら、私娼を置いて客の求めに応じて売春させる店のことで、明治時代から大正時代にかけての風俗営業の一種でした。明治の女流作家の樋口一葉の代表作「にごりえ」は、この銘酒屋で働く「お力」を主人公にした小説で、明治27年にこの地に引っ越してきた一葉の実体験に基づいています。一葉の旧居跡(現在の興陽社ビル)の後方には西片の台地がせまっていて、一葉の住まいが崖下にあったことがわかります。

この崖下から柳町仲通り商店街のあたりまでの一帯が「新開地」で、大正期に白山花街が建設されるまでの濫觴(らんしょう)となりました。
一葉は、「にごりえ」の中で、もっぱら底辺社会をその中の一人として描き続けることにより、崖上の裕福な人々(世間)との格差への社会批判を込めました。
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崖上(台地)と崖下(谷地)という都市構造は、江戸時代の土地利用形態にさかのぼることができます。東京の城北地区には、東から、「上野台地」、「本郷大地」、「小石川・目白台地」と台地が続き、台地と台地の間に谷が南北に入り込んで、随所に崖地を形成していますが、江戸時代、台地(高台)には、多くの場合、大名屋敷が立地していました。高台は住宅地として良好な環境をもっているうえ、高低差による湧き水を生かして池をつくり、庭園を設けることができたからです。一方、水の豊かな谷地には、農民が住み、百姓町となり、次第に町人地に転じて、庶民的賑わいのある帯状の町を形成していきました。文京区の音羽町(小石川台地の西側)は、その典型で、地形と密接に結びついた独特の雰囲気を今に伝えています。
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音羽町は護国寺の門前町として発展し、特に、六丁目から九丁目にかけて(現在の音羽一丁目)は、岡場所(江戸時代の私娼窟)があって江戸有数の盛り場でした。還国寺(文京区小日向2丁目)?から見える崖下には、ちょっと一雨でもくれば崖崩れでひととまりもないようなうらぶれた私娼宿が並んでいました(江戸の性を考える会:大江戸岡場所細見)。
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以上のように、文京区の丸山福山町と音羽町の私娼窟は、変化に富んだ自然地形と武家社会(=差別社会)という特異な社会条件がそろって、谷地に自然発生的に生まれたと考えられます。