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2011年02月08日 16:13

感激されていたエピソード「親が自分のために立ち上がってくれた、最も格好よかったこと」

 

家族
子供の頃に、親が自分のピンチを救ってくれたという記憶は、忘れがたいものがあるのではないでしょうか。

親としてはもちろん子供の一番の味方となってあげたいものですが、タイミングよく助けるとなると、これがなかなか難しいものですよね。

海外掲示板で語られていた、「親が自分のために立ち上がってくれた、最も格好よかったこと」と言うエピソードをいくつかご紹介します。

・始めに説明しておくと、私は多発性硬化症と言う、神経がうまく脳と伝達できない病気を患っています。
 その日は尿閉(正常に尿が排出できなない)のため救急にいました。18歳だったけれど体は小さく童顔だったので15、6歳に見えたんじゃないかな。それから2日も排尿が出来なかったせいで、まるで妊娠6、7ヶ月のようなお腹になっていました。母を救急室で待っていると、見知らぬ女性がやって来て私のことを股を閉じることを学ぶべき「不潔な売春婦」と呼びました。今まで他人からそんな風に言われたことがなかった私には、それをどう受け取っていいのかわかりませんでした。
 母は私の目から見ても、洗練された品があり、聡明さと美しさを兼ね備えた魅力的な人でした。部屋に入ると誰もが彼女に目を向けるほどで、自然と好かれるようなタイプでした。母が怒る姿を想像するのは誰もが難しかったと思います。
 母が病院に着くと、私はその女性に言われたことを話しました。すると母はその女性のところに向い、こう言ったのです。
 「あそこにボールのように丸くなって泣いている子が見えるかしら?あの子は私の娘です。妊娠した売春婦なんかじゃありません。多発性硬化症を患って尿閉で苦しんでいるのです。この瞬間さえも、あの子は全身がしびれるような思いを抱えているんです。まるで体の芯から絞り込まれているかのような苦しみで、治療をすぐにでも受けなければ腎臓を痛めてしまいます。放っておけば衰弱して死に至る病気で、あそこで身動きすら取れない状態で医療チームの助けを待っているところです。娘に謝ってください
 その女性は凍りついた表情で「ごめんなさい」と小さく言いました。母は続けて「今度そんな風に娘を見ることがあれば、ぶちのめします

・うちの両親は僕を養子にしてくれた。

・子供の頃、養子だった友人とケンカすると、いつも彼女が勝った。そしてこう言った。「うちの家族は私を選んでくれたのよ。あなたの家族はしかたなくいるあなたで身動きが取れないのよ」と。7歳の私は傷ついたけど……でも親分肌だったわね。ハハ。

・オレも養子だったが、なるほど、そんな風に考えりゃいいんだな。

・僕が小学校2年生のとき、親の職業について作文を書くことになった。母さんは専業主婦(もちろん立派な仕事だ)だったので、テスト・パイロットだった父さんの仕事について書くことにした。父さんが戦闘パイロットでミサイルを撃ってるだとか、ジェット機を飛ばしていかに格好いいかなどを書いた。先生はその作文に「D」を付け、両親から署名をもらってくるようコメント欄に書いた。そのコメントの中に「この子は素晴らしい想像力を持っていますが、この作文課題は『両親の仕事』であり、『両親がこんな仕事だったらいいな』ではありません」
 言うまでもなくこれを見た父さんは激怒した。翌日、基地に遅刻をすると連絡を入れ、ユニフォームをフル装備(Gベルト、ヘルメット、防火手袋、それ以外のすべて)にして、僕を誇らしげに教室に連れて行った。すると先生の口はあんぐり開いたままで、父はスペーススーツやヘルメットといったものを何人かの生徒に着せてあげたりして、デモンストレーションしてくれた。そして、先生はみんなの前で僕に正式に謝ってくれたんだ。

・そのお口あんぐりな先生の顔はプライスレスだな。

・垂直着陸が可能なハリアー・ジェット機を校庭に直接着陸させなかったのが残念だ。

・6歳か7歳の頃、僕より2、3年上の子に嫌がらせをされていた。今は20年前とはやり方が違うかもしれないが、母が学校に迎えに来たとき、先生が僕をいじめる悪ガキと直接話をしますかと聞いてきた。先生は多分その申し出は断られると思っていたのだろうが、うちの母はそれを丁寧に快諾し、指さされたその子のところまで行って、「うちの息子にあと一回でも触れたら、あなたをねじりあげてしまうからね」と言い放った。先生はショックを受けた顔で棒立ちになり、その悪ガキも恐怖で凍りついていた。そのまま母は僕を連れて帰った。

・7歳の頃、僕は他の子供達と一切しゃべらなかったので、学校の先生と委員会は僕のことを知的障害、及び、注意欠陥児童と診断した。怒り心頭の父は抗議の手紙を委員会に書いて診断の取り消しを求め、IQテストをするよう請求した。しつこく請求した末にようやくテストが行われ、診断は取り消された。僕は今ケンブリッジ大学にいるが、もし父がプロに言われるがままで、その診断にしたがって教育を受けていたら、到底今やっていることにはたどり着いていないだろうな。

・はははははははは、僕の両親が僕のために立ち上がるだって?はははははははははは……(涙)はははは。

・わかるよ。親父がコーラを買うのに1ドルをくれたとき、その自販機は1ドルだけ吸いとってコーラが出てこなかった。そのことを親父に説明したら「次に1ドルをオレから盗んだらお前を叩きのめす」と言われた。僕の両親は自販機にさえ立ち向かってくれなかったよ。

・オレがいじめっこを殴って停学になったとき、罰を与える代わりに遊園地に連れていってくれた。

・中学生のとき毎日のようにいじめられていた。いじめはひどく自殺を考え始めていた。私なんていない方がいいとか、そいつに仕返しする自殺の方法は何か、なんて事を考えるほど追い詰められていた。
 最終的に両親に話したら父も母も大激怒して、その晩の内に激しい話し合いが兄(当時ホッケーのキャプテンだった)といじめっ子との間であったらしい(後から知った)。父は自分の手でそのいじめっ子の首を締めたかったようだけど、逮捕されたくはなかったので、未成年の兄を使うことにしたようだ。16歳だった兄と友人たちを、いじめっ子の家まで行かせて、私に手出しするなら外に連れだして女のように泣き叫ぶところを撃ってやると脅したそうだ。
 翌日いじめっ子はなぜか学校を欠席していて、その後、私が何か言われたりすることは無くなった。家族が何をしてくれたかっていうのは、何年も経ってから知った。

・ちょっとした悪いことが起こるたびに、難癖をつけて避けてきた両親を持つオレにすりゃ、夢のような両親を持っている君らを羨ましく思うよ。感謝しろ。

・いつもオレをいじめていたヤツはオレと同じバス停で降りた。いじめはだんだんエスカレートして暴力的になっていったが、それを知った父がバス停のすぐ横の森に隠れ、そいつがオレを突いた瞬間にランボーのように現れ、そのままヤツの耳を引っ張って家まで連れていった。それからそいつは何年もオレを恐れ、話すことはなかった。

・私は難聴で、小学生の頃は今よりひどかった。1年生のときの先生はひどかった。ある日、先生の机まで来るよう呼ばれた。もちろん私には先生の声は聞こえない。すると先生は私の机まできて私のポニーテイルをぐいっと引っ張った。その日家に帰ると、母にどうしてポニーテイルが片方傾いているのか聞かれたので説明した。
 激怒した母は翌日学校に行き、先生に娘の髪の毛を引っ張っていい理由の説明を求めた。すると先生は「彼女の注意をひこうとしましたが全く注意が引けないので引っ張りました」と答えた。母は「それは本当ですか?娘が難聴であることは学校の緊急連絡用紙にも書いてありますが、では、あなたの注意を引けないときはあなたの顔を殴ってもいいということですね」
 母はその先生を泣かせ、膝ついて私に謝らせ、彼女はその後学校を辞めてしまったようだ。

・僕が17歳のとき、眼瞼炎(感染を伴わない目の炎症)を患ったときのこと。高校で校長先生にいきなり腕をつかまれ、校長室に続く廊下まで引っ張られ、「結膜炎になってるじゃないの!」と責めるような口調で言われた。僕は「違います、これは眼瞼炎です」と弁解したけれど、「違うわ、それは結膜炎だわ」と決め付けて副校長を呼び、彼女まで僕に同じことを言った。
 もう僕はあきれてこの双子のような二人のビッチにうんざりし、それでも繰り返しそうではないことを伝えた。「これが眼瞼炎と言うもので、でバクテリアによる感染しない感染症であり、自分の網膜がアレルギーを起こしていて…」「結膜炎なので家に帰りなさい」
 気づいたら僕は学校から追い出されていて、学校から電話することも許されなかった。母親の前の職場が近所だったので、そこで電話を借りて母親に電話すると母親は激怒し、とりあえずは僕に家まで歩いて帰るよう指示され、明日取り計らうと言われた。
 オフィスから聞こえる声からすると、母親はすごく声を荒げていて、医療資格でも壁に貼ってあるのでなければ、勝手に診断を下すことができないなどを散々伝え、さらに学校の保険医が僕の診断書を持っていたこともわかった。

・僕は小学校2年生だった1988年、韓国のソウルの学校に通っていた。学校では管理人が新しくセメントを塗っていて、学校から通りを隔てたところに住んでいた僕と弟は、子どもがよくやるようにぺたぺたと手型をセメントにつけた。そしたらその管理人に見つかってしまい殴られたんだ。それを僕らを呼んでいた父親が見つけ、管理人のところまで走って顔を殴り、さらに2人目を蹴り、ついでに急所もパンチした。
 僕らが横で泣いている間に5秒で2人をノックアウトした。管理人たちが僕らがセメントにイタズラしたことを言い返したら、父親はこう返した。「うちの子どもが何か悪いことをしたら、喜んでその損害を払い、オレが子どもに罰を与える。なんでオレの代わりに他人に子どもを殴らせるんだ?」
 そう言って父親は財布から1万ウォンを地面に投げつけ、僕らを家に連れて帰った。その晩僕らはおしりをぶたれた。

・「その晩僕らはおしりをぶたれた」に1票。

・2、3歳の頃オーランドのテーマパークに家族で出かけた。リバー・ワイルドネスだったと思うが、そこには小さな動物園があり、僕は囲われたガチョウのおりの中に迷いこんでしまった。そこには何十羽ものガチョウがいて、僕を囲んで突きだした。その結果、僕の一番古い記憶は、父さんがガチョウの群れの中を怒ってかき分け、意地悪なガチョウと取っ組み合いをしているところなんだ。かなりすごかったよ。

・8歳のときバスケットボールをしていたら、いきなり14、5歳の子が目の前にやってきた。ちょうどその時、僕はシュートを決めたところで、そんな高いところにボールを投げられたことを誇らしげにしていて、その子はゴールをミスったんだ。すると僕のところまで走り寄ってきて「何でもうまくやれると思ってるんだろ?」と言ったかと思うと、いきなり僕の首を締め、僕は気を失った。数分して目が覚めたら、そいつが連れの友だちと僕を笑っていた。
 泣きながら母親の仕事先まで行くと、「どうしたの?」と聞かれ、ひどいやつに首を締められたことを説明した。すると母はそこまで連れていくように言った。(ちなみに母はかなり小さい)
 到着して僕が指差すと、母はボールをそいつの後頭部に投げつけた。驚いて振り向いたその子に向かって母は叫んだ。
「次に私の息子に手を触れたら、おしりを蹴り倒してやるからね、あんたの母親のもね。ついでに私の夫にあんたの父親のも蹴っ飛ばしてもらうわ。それから息子(兄はレスラーのチャンピオンで休暇中だった)が帰ってきたら、あんたが卒業するまで毎日そうしてやるからね。わかったかい?」
 その子は泣きながら立ち去って、今でも僕と目を合わせようとしない。母さん愛してるよ。

やりすぎと思えるものもありますが、何はともあれ、すばらしい両親がいるというのは、何ものにも変えがたいものがありますね。

What is the coolest way your parent/s have stood up for you?

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