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2008年04月25日 18:27

ビジネス史上に残る「大失敗の決断」ワースト6

 
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ビジネスの成功において、先見の明が大事なことは言うまでもありません。

常に先のことを見越し、そして決断する。それが成功の鍵と言えます。

とは言っても人間ですから、そう簡単に未来は見えず、決断には失敗もあります。

あるいは成功するわけがないと思っていたものが、思いがけずブレイクすることだってあります。

結果的に、これは大失敗だった、という史上に残る「決断」をご紹介します。

1. ビートルズを拒否した
ビジネス史上に残る大失敗だった決断01

責任者: イギリスのレコード会社であるデッカ・レコードのマイク・スミスとディック・ロウは新人の評価をするロンドン支店の責任者でした。

背景: 1961年12月13日、マイク・スミスはリバプールまでロックバンドのステージを見にやってきました。彼はそのバンドには才能があると感じ、彼らを翌年のニューヨークのオーディションに招待しました。グループはロンドンまで行き、デッカ・レコードのスタジオで15曲を2時間かけて演奏し、リバプールに戻り結果を待っていました。何週間もそのまま過ぎました。

決断: ロウはバンドのマネージャーに他の人気グループの"The Shadows"とサウンドが似ているので、レコード会社が興味を示していないと伝えます。その有名になった拒否のセリフは「はっきり言って、彼らのサウンドは気に入らないよ。4人組でギターなんて終わってる。

インパクト: 結果的には彼らはEMIレコードと契約し、ギターバンドのトレンドを一気に復活させ、歴史上最も人気のあるグループバンドとなりました。契約後2年足らずでEMIレコードは大成長を遂げ、空前のヒットを飛ばしたビートルズのレコードに対するニーズに対応するために、皮肉にもデッカ・レコードが協力することになりました。

2. E.Tを拒否した
ビジネス史上に残る大失敗だった決断02

責任者: ジョン&フォレスト・マーズはチョコレート菓子のM&M's(エムアンドエムズ)で有名なMars Inc(マーズ社)のオーナーです。

背景: 1981年にユニバーサル・スタジオはマーズ社を招き、新作の映画にM&M's(エムアンドエムズ)を利用してもいいかどうかを尋ねました。当時はこういった商品や製品を映画とタイアップすることで、スポンサー費用を得たり、映画をプロモーションしてもらうのが一般的でした。この監督は、M&M's(エムアンドエムズ)を使う代わりにプロモーションに協力してもらう狙いでした。

決断: マーズ社の兄弟の返事は「ノー」でした。

インパクト: この映画がスピルバーグのE.T.だったわけですが、このチョコレート菓子を使う場面は映画の重要なポイントであり、少年エリオットがE.T.と仲良くなるため家までおびき寄せるシーンでした。

ユニバーサル・スタジオはハーシー社と交渉し、新製品リースズピース(Reese's Pieces)というチョコレートで契約をしました。最初の売り上げは小さなものでしたが、E.T.がヒットを飛ばすと、「E.T.のお気に入りの菓子」として爆発的な売り上げをあげました。

たった2週間で売り上げは3倍になり、その後何ヶ月もの間売り上げはうなぎのぼりだったそうです。契約の許諾をしたハーシー社の責任者、ジャック・ドウド氏は「史上最高の需要になった」と後に語っており、「一気に新製品が世に知れ渡ったが、通常15〜20ミリオンドル(15〜20億円)のコストは必要」だそうです。

3. 「M★A★S★H マッシュ」を安く売ってしまった
ビジネス史上に残る大失敗だった決断03

責任者: 20世紀フォックスのテレビ部門の幹部

背景: 20世紀フォックスの誰もが、1972年に始まったドラマの「M★A★S★H マッシュ」を期待していませんでした。幹部は単に「M★A★S★H マッシュ」の映画のセットを利用してドラマ・シリーズを安くあげようとしていただけなのです。ところがそれは20世紀フォックスがヒットを出した唯一の番組となりました。3年後にシリーズ中の2名の俳優が去ったあと、視聴率は下がり財政が苦しくなってくると20世紀フォックスはパニックに陥りました。

決断: なんとか利益を上げるために20世紀フォックスが考えたのが、最初の7シリーズの将来分の放映権を売ることでした。地方のテレビ局が1975年に買い、4年後の1979年までは放映できないというものでした。フォックスはシリーズの人気は保証はできないと伝え、1エピソードにつき13000ドル(約130万円)でノークレーム、ノーリターンという条件でした。とりあえず20世紀フォックスは2500万ドル(約25億円)を手にし祝っていたのです。

インパクト: ところが4年後の1979年に放映されると、まだ人気が根強く残っており、その年の3位にランクインしました。譲り受けた版権でもっとも成功した番組となり、168エピソードあった一話ごとに100万ドル(約1億円)以上の利益をあげ、20世紀フォックスはその恩恵を受けることはありませんでした。

4. 電話の導入を断る
ビジネス史上に残る大失敗だった決断04

責任者: 1876年のウエスタンユニオンの取締役ウィリアム・オートン

背景: 1876年ウエスタンユニオンは当時もっとも先進的な通信だった電報の独占をしていました。そのためアメリカでもっとも力と金のある企業だったのです。資本金4100万ドルを筆頭に、経済界の後ろ盾も強くまさに怖いものなしでした。そこへボストンの富豪ガーディナー・グリース・ハバード氏が、氏の投資した新発明の製品特許を買わないかと話を持ちかけてきました。ハバード氏は10万ドルで交渉しましたが、オートンはそれを冗談として一笑に付しました。

決断: オートンはハバードを経由せず、発明者であったベル氏に直接返事を出しました。「ベル氏へ」から始まるその内容は次の通りでした。「あなたの発明品について慎重に検討した結果、非常に興味深い新案物ではありますが、商業的な価値はないという決断に達しました。電気製のおもちゃを我が社でどう利用しろと言うのですか?

インパクト: その発明品というのが電話だったわけですが、ウエスタンユニオンには完璧な製品だったのです。すでに電報のネットワークを全国に張り巡らしており、発明者のグラハム・ベル氏は電話は電報のラインを利用できると伝えていました。ウウエスタンユニオンがすることと言えば、すでに引いているラインに電話を設置するだけで済んだわけです。世界で最初の電話線のネットワークが数ヶ月で出来るはずだったのです。

ところがこの決断によりベル氏はこの特許をそのまま20年も彼の電話会社で持っていることになりました。名前はAmerican Telephone and Telegraph(AT&T)と変更され、後にアメリカ最大の企業となります。たった10万ドルで売られかけたこの特許は史上最も価値のある特許だったのです。

皮肉にも、ベル氏を断って2年経たないうちにオートンはこの重大なミスに気づき、この特許を得るため電話のネットワーク作りに何百万ドルも注ぎ込みます。そのネットワークは最終的にはベル氏に渡さなければならない結果となり、成功して名を残すはずが、アメリカ史上最悪の決断を下した一人として後世に名を残すことになりました。

ちなみにウエスタンユニオンは、2006年に電信サービスを停止、2007年に他のサービスも停止したそうです。

5. バドワイザーに対抗した
ビジネス史上に残る大失敗だった決断05

責任者: ウィスコンシン州のミルウォーキーにあるシュリッツ(Schlitz)社の頭取ロバート・ユーレイン・ジュニア(Robert Uihlein Jr)

背景: 1970年代、シュリッツビールははアメリカでバドワイザーに次ぐ第2位の売り上げがありました。1957年までは1位だったので、ユーレイン氏はバドワイザーのメーカーであるアンハイザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)社に挑む戦略を考えました。それはビールに使う材料費をカットすることで醸造にかかる時間を短縮し、同じ量のビールを、より安く、より速く、作るというものでした。それによって高い利益を得ようとしたのです。

決断: ユーレイン氏はそれまで40日かけて作っていたものを15日にまで短縮し、モルトの代わりにもっと安価なコーンシロップに置き換えました。さらにフォーム安定剤まで他のものに変えました。

インパクト: ユーレインの思惑通り、安くて利益が上がるビールが出来、それによって利益を得ました。ところがそのビールは非常にまずかったのです。この安いビールの原材料はすぐ缶の底に沈み込み、まるでそれが鼻汁のように見えたそうです。その鼻汁入りビールの評判を知りながら、ユーレイン氏は回収をしばらくしなかったことで、売り上げは急降下しすぐにトップ3から外れたそうです。

シュリッツはついに1000万本の鼻汁ビールを回収することにしましたが、すでに評判は地に落ち、売り上げは二度と回復することがありませんでした。1981年にはミルウォーキーの醸造所を閉鎖し翌年ライバル会社に買収されました。

6. 車のモデルチェンジを拒否した
ビジネス史上に残る大失敗だった決断06

責任者: フォード・モーターの創始者ヘンリー・フォード

背景: ヘンリー・フォードが1908年に最初のフォード・モデルTを市場に出した当時は斬新なモデルでした。「安い車は他に市場に出回っていたが、斬新さと安心さの両方を提供できる車はなかった」と言われたのです。年月は流れ、値段はどんどん下がりましたが、モデルTは初めて安価で質のよい自動車としてアメリカ文化を革新させたのです。

決断: モデルTは当時フォード・モーターが作っていた唯一の車でした。自動車産業が盛んになり競争が激しくなるにつれて、フォードの従業員も彼の家族も新しいデザインを作るように勧めました。

最初のモデルチェンジの提案はまだ車が出て4年しか経っていないときでしたが、1912年に彼と家族がヨーロッパ旅行へ行って帰ってきたときに、スタッフたちが驚かせようとニューモデルを用意していました。彼らは車体の低い新しいモデルTを用意して待っており、赤く塗られたピカピカの新車が待っていました。フォード氏はポケットに手を入れていました。車の周りを3〜4周ほど周り、車を何度も観察し、そしてついに彼は両手を出し、左側のドアに手をかけて、何と引きちぎったのです。

その後彼は、車を全て素手でめちゃくちゃにしました。そのエピソードは皆に彼の創造した自慢のデザインに手を出してはいけない、というメッセージになりました。後にロバート・レイシー氏はこう語っています。「モデルTは実際にヘンリー・フォード氏の創造の賜物で、彼はそのことで至福の喜びや富や権力を手に入れたので、彼の思い入れは理解できますが、年月が流れるにしたがって彼は自分の傑作に対して不健康ともいえるほど固執するようになりました。」

フォード氏の決断は明らかで、1925年、つまり15年もの年月が経ったあとですが、このモデルTはまだ最初に市場に出たものと同じモデルのままでした。同じうるさい音を発し、馬力の少ない4シリンダーエンジンを使い、旧式のトランスミッションなど初期当時のものが多かったのです。タイヤ、電気スタート、アクセルなどのいくつかの変化は譲歩し、1920年代には黒以外のいろんな色も出回りましたが、モデルTはモデルTのままでした。ニューヨークのフォード・ディーラーは「馬小屋の色を塗り替えても馬小屋には変わりはない、客間にはなれないさ」と言ったそうです。

インパクト: フォードがこの栄誉ともいえる車を休ませている間にライバル社たちは革新を続けていました。4シリンダーから、力のあるマニュアルクラッチでギア付きの6シリンダーに取って代わるなど、これらの新しい車は高速道路でハイスピードで走ることを可能にしました。舗装されていない道路のためにデザインされたモデルTには出来ないことでした。

自動車のバイヤーたちはそれに気づいて取引きを始めました。ダッジやゼネラルモーターズは売り上げを着実に増大していき、フォードの市場は1923年の国内売り上げで57%、1925年には45%、1926年には34%にまで落ち込みました。ようやく1927年にモデルチェンジを発表したときには、すでに市場での競争力が低下しており、シボレーがついにフォードの売り上げを超えました。1929年に発表したModel Aの売り上げがよくまた一位に返り咲きましたが、その翌年にまたシボレーに追い抜かれ、その後はずっと2番手になりました。自慢のフォードが2番で満足しなくてはいけなくなったのは1930年からなのです。


これは海外の例でしたが、日本でも同じ類いの決断は多々あるでしょうし、その影響は後になってからしかわからず、失敗と気づいても後の祭りというのが世の常のようです。

しかしながら、逆の見かたをすれば誰かの失敗のおかげで成功した人もいるわけで、売れる可能性のあるものはそこらじゅうに転がっているのかもしれません。

The Stupidest Business Decisions in Historyより

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