以下の内容はhttp://blog.livedoor.jp/toden41/archives/cat_819890.htmlより取得しました。


系統番号22番 その9

江戸通りをさらに進みます。馬喰町交差点から少し歩くと、鞍掛橋という交差点に出ますが、ここはかつての浜町川(浜町堀)に架かっていた橋の跡地です。川は戦後に埋め立てられ、橋が姿を消してから久しいですが、今も交差点名として橋の名が残っています。大正期の頃までは、ここに【鞍掛橋】がありました。

鞍掛橋交差点の次の信号で江戸通りと交差する小さな通りを大門通りといいますが、これと旧日光街道の道筋との角にあったのが、現在の大丸デパートの前身にあたる大丸呉服店です。明治43年まで店を開いていたようで、電車開業当時にはまだその姿があったことになります。

間もなく人形町通りとの交差点に出ると、「系統番号13番 その12」でご紹介した【小伝馬町】です。人形町通りには、【水天宮前】へ向かう【新宿駅前】からの13番と、22番とは姉妹路線ともいえる【千住4丁目】からの21番が交差しました。

江戸通りが昭和通りと交差する本町3丁目交差点が、【本町3丁目】です。かつては【鉄砲町】でしたが、昭和7年に町名が消滅し、電停も改称しました。江戸期の切絵図でこの付近を見てみると、日銀本店のあたりから本町1丁目、2丁目があり、旧日光街道に沿って3丁目、4丁目と続いていたようです。家康の江戸入り直後にあたる天正18年(1590)9月、市中で最初に町割りされたのがこの場所であり、本町とは江戸の町家の原点といった意味合いを持っています。

やがて江戸通りが中央通りと交差すると、「系統番号1番 その10」でご紹介した【室町3丁目】です。【蔵前1丁目】から併走してきた31番の電車は、そのまま江戸通りを直進して丸ノ内方向へと向かいましたが、22番の電車はここから都電の目抜き通りとなる中央通りへポイントを切り、1番、19番、40番とともに日本橋、銀座を経て終点の【新橋】へと南下していきました。

*本文中の【 】は、電停名です。

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戦前の本町界隈

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系統番号22番 その8

やがて江戸通り正面に総武線の高架が見えると、その手前が【浅草橋駅前】です。もともとは【茅町】で、戦前までは周辺に茅町の町名がありました。この付近の電車の開業が明治37年なのに対し、総武線浅草橋駅開業は昭和7年のことです。

総武線の高架をくぐると、その先が神田川を渡す浅草橋です。創架年代は定かでないようですが、江戸初期の頃から日光(奥州)街道に通じる交通の要衝として、重んじられた橋といわれます。橋の南詰は、浅草口と呼ばれた江戸城外郭門の跡地で、浅草見附として番士が置かれていました。いわゆる江戸三十六見附のうちでは、最も外側に位置したのが浅草口でした。見附は明治6年に撤去され、江戸期以来の木橋は石橋となり、同16年には鉄橋となりましたが、急激な交通量の増大から橋はあっという間に手狭になり、同31年には新たな鉄橋に架け替えられました。短命に終わった初代鉄橋は、上流の美倉橋でしばらく再利用されたといわれます。

浅草橋南詰で、江戸通りは清杉通りを左へ分け、そのすぐ先で靖国通りと交差する三角形の交差点に入ると、「系統番号12番 その4」でご紹介した【浅草橋】です。靖国通り上には、【新宿駅前】と【両国駅前】を結んだ12番、【西荒川】への25番、【葛西橋】への29番が東西に交差しました。

浅草橋を過ぎると、江戸通りは中央区に入ります。浅草橋交差点の先は、古くから横山町問屋街として賑わった場所ですが、江戸通りの南側に並行する横山町大通りが旧日光街道の道筋で、現在も衣料品を扱う問屋がびっしりと軒を並べ、江戸期からの問屋街の街並みが受け継がれています。店頭の「小売いたしません」「一般消費者はご遠慮下さい」といった札が、いかにも問屋街らしいといえるでしょう。

間もなく清洲橋通りと交差する馬喰町交差点に出ると、【馬喰町】です。馬喰町は江戸期からの地名で、馬の売買や仲介を営む「博労」が住んだ街といわれます。馬市もここで行われました。横山町の問屋街に近く、全国から仕入れや売り込みに来る商人が多かったため、江戸期から旅館街としても賑わいましたが、その大半は震災や戦災で姿を消していきました。

*本文中の【 】は、電停名です。

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浅草橋付近の神田川

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系統番号22番 その7

江戸通りと春日通りが交差する厩橋交差点が、「系統番号16番 その11」でご紹介した【厩橋】です。春日通り上を16番が東西に交差した他、【早稲田】からの39番がここで西へ折り返していました。交差点を左へ入ると、16番の渡った厩橋です。

厩橋交差点を過ぎたあたりから、蔵前地区の中心地に入ります。江戸通り左手の隅田川沿いは、かつて浅草御蔵と呼ばれた江戸幕府の米蔵が置かれた場所で、川沿いに一番堀から八番堀までの溝渠があり、全国諸侯から幕府へ納められる年貢米の収蔵庫が並んでいました。蔵前の地名もこれに因むものです。近年はこの付近も高層ビルやマンションが多くなり、都電時代の蔵前の街並みからは激変していますが、ビルの谷間に玩具やゴム製品の卸問屋がぽつぽつ残る様子は、やはり蔵前らしさといっていいでしょう。

やがて右手から国際通りが合流してきますが、その手前付近が【蔵前3丁目】、その先の蔵前橋通りとの交差点が【蔵前1丁目】です。【蔵前3丁目】は、電車開業当初は【蔵前】でしたが、昭和39年の住居表示で街区割りが変わると、【蔵前3丁目】が【蔵前2丁目】に、【蔵前1丁目】が【蔵前】となりました。蔵前橋通りからは、【三ノ輪橋】からの31番が合流し、この先の【室町3丁目】まで22番と併走しました。

蔵前橋通りを左へ入ると、200メートルほど先に蔵前橋が見えますが、その手前左手の水道局の施設一帯が、昭和29年に完成した蔵前国技館の跡地です。戦後の両国国技館の接収に伴い、新たな相撲興行の本拠地として建設されたもので、都電全盛期の東京名所のひとつとして知られましたが、昭和59年に現在の二代目両国国技館が完成し、その役目を終えました。

江戸通りの左右に、華やかな人形を飾るショーウィンドウが目立ち始めると、浅草橋の街並みです。浅草寺へ続く参詣道として賑わったかつての日光街道の道筋は、江戸期から人形問屋街として知られた場所です。吉徳、久月といったテレビCM等でもお馴染みの老舗をはじめ、現在も多数の人形店が軒を連ねています。

*本文中の【 】は、電停名です。

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昭和37年の路線図(朝日百科 歴史でめぐる鉄道全路線 付録)

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系統番号22番 その6

駒形橋西詰交差点から雷門正面に向けて、仲見世の延長線となる道幅の広い通りがありますが、22番の枝線が敷かれていたのがこの通りで、雷門手前の【雷門】で電車が折り返していました。明治37年の電車開業当初からの伝統ある路線の一部で、日本橋、銀座、品川方面とを結んだ馬車鉄道時代からのルートでもあり、かつてのトップナンバー1番はここから品川へと向かい、1番が【品川駅前】~【上野駅前】間に変更されて後も、日曜祭日に限り、【三田】からの臨時1番が【雷門】に姿を見せていました。【雷門】からの臨時22番は、運行回数も少なかったようで、平日はこの枝線に電車が入って行く光景はあまり見られなかったようです。

駒形橋西詰交差点を左へ入ると、隅田川を渡す駒形橋です。こちらも震災復興橋で、昭和2年の架橋です。水色のタイドアーチが美しい橋ですが、よく見ると中央部がいわゆる下路式のアーチ橋で、その両側に上路式のアーチ橋がつながっている三連の橋であることがわかります。設計者にどのような意図があったかはわかりませんが、上流側の上路式の吾妻橋と、下流側の下路式の厩橋に挟まれ、その両方式を採用したのは偶然なのでしょうか。

駒形橋の袂に、端正な方形の土蔵造りを見せるのが、駒形堂です。ここは浅草寺本尊の観音像が、隅田川から引き揚げられたと伝えられる場所で、堂は天慶5年(942)に平公雅が建立したとする説や、治承4年(1180)に源頼朝が浅草寺へ戦勝祈願をした際に建立したとする説などがあるようです。現在の堂は、震災による大破を経て、昭和8年に再建されたものです。

江戸通り右手には、創業200余年という「駒形どぜう」の看板が見えます。一見、江戸期以来かと思わせる建物は、実は昭和39年再建とのことで、老舗の伝統が建物という外観においてもしっかりと守られている感があります。その並びには大手玩具メーカーのバンダイ本社がありますが、このあたりから人形や玩具の問屋街として発展してきた蔵前の街並みが始まります。

*本文中の【 】は、電停名です。

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駒形橋

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系統番号22番 その5

右手奥に浅草寺二天門などを見ながら、江戸通りをさらに進みます。やがて東武線の高架下をくぐり、右手に東武浅草駅(浅草松屋)をやり過ごすと、吾妻橋交差点手前が【浅草】です。雷門通りから吾妻橋にかけて、【須田町】と【福神橋】を結んだ24番、同じく【須田町】と【寺島2丁目】を結んだ30番が東西に交差しました。古くは【吾妻橋西詰】と呼ばれた電停で、交差点を左へ入ると、すぐに隅田川を渡す吾妻橋です。

浅草に最初に電車が走り始めたのは、明治37年です。その後の震災や戦災を経て、浅草の街並みも大きく変貌しましたが、都電時代を見つめ続けた浅草のランドマークとして現在も残る建物としては、まずは東武浅草駅(浅草松屋)ビルが挙げられるでしょう。昭和6年の竣工で、アールデコ調の外観や、東京で二番目の私鉄ターミナルデパートとして話題を集めました。都電廃止後の昭和49年に、アルミ材で外壁全面を覆う改装工事が行われ、長らく往時の外観が封印されてきましたが、昨年の東京スカイツリー開業に合わせて外観が竣工当時の姿に戻され、現在は再び浅草の「顔」として注目を集めています。

吾妻橋交差点北西角の神谷バーも、浅草の「顔」として広く知られています。創業は明治13年。現在も見られる建物は、大正10年築の鉄筋コンクリート4階建てで、住所が浅草1丁目1番地というのも売りのひとつです。看板商品の電気ブランは明治期の誕生で、「電気」が当時の最先端を象徴する冠言葉として使われた世相が偲ばれます。

吾妻橋交差点は、地下鉄銀座線浅草駅の真上でもありますが、浅草駅は東洋初の地下鉄として昭和2年に開業しました。交差点の周囲に設置された各出入口の造形に、時代を感じさせる意匠が多く見られますが、中でも東武浅草駅正面前の8番出口には、昭和の香りが色濃く残っているといえるでしょう。地下には半世紀前から時間が止まっているかのような商店街も見られ、都電時代の浅草の雰囲気が、地下にはそっくりと残っている感があります。

吾妻橋については、これを渡った24番をご紹介する際に、改めて触れることにしましょう。吾妻橋を左に見ながら江戸通りを進むと、次の駒形橋西詰交差点が【駒形2丁目】です。こちらは都営地下鉄浅草線浅草駅の真上にあたり、駅は昭和35年の開業です。当初は駒形駅と称し、この先の浅草橋までの区間は、都電22番と競合関係にありました。

*本文中の【 】は、電停名です。

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東武線高架下から東武浅草駅(浅草松屋)へ。外壁がアルミ材で覆われていた頃の外観

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