以下の内容はhttp://blog.livedoor.jp/toden41/archives/cat_729758.htmlより取得しました。


系統番号21番 その9

昭和通りから浅草通りが左へ分かれる交差点を過ぎると、「系統番号1番 その14」でご紹介した【上野駅前】です。都電のトップナンバー1番の折り返し点ですが、1番とともに上野広小路方向から中央通りを走ってきた24、30番の電車は、【上野駅前】から浅草通りへ抜ける際、昭和通り上の21番とX字型に交差しました。

右手に上野駅の駅舎を見ながら、昭和通りをさらに進みます。この付近から、21番の軌道にはセンターリザベーション方式が採用され、御徒町付近までのわずかな区間ではありましたが、左右の車道と中央の軌道の明確な分離がなされていました。現在の荒川線に見られる、早稲田付近の新目白通りと同様のイメージと考えていいでしょう。また、昭和通りを覆う首都高速の橋脚が、道路中央からT字型に支えるものではなく、中央の車線の両側から二脚で支える形状なのは、中央に軌道があった名残と見ていいでしょう。

間もなく春日通りと交差する台東4丁目交差点が、「系統番号16番 その9」でご紹介した【御徒町3丁目】です。春日通り上には、【大塚駅前】と【錦糸町駅前】を結んだ16番が東西に交差しました。御徒町駅に近い場所ですが、昭和39年の住居表示で御徒町の町名が消滅すると、電停は【御徒町駅前】に変わりました。この先電停は【御徒町2丁目】【御徒町1丁目】と続きましたが、いずれも住居表示後は【台東3丁目】【台東1丁目】と変わりました。このうち【御徒町2丁目】は、電車開業当初は【仲御徒町】でしたが、これは現在の地下鉄日比谷線の駅名に受け継がれています。

御徒町界隈を抜けると、台東区と千代田区の境界にある松永町交差点が、【和泉町】です。電停は戦前まで【松永町】、戦後になって【和泉町】となりましたが、昭和通り右手が神田松永町、左手が神田和泉町です。千代田区の内でも、秋葉原駅周辺には昔ながらの古い町名が多数残され、神田練塀町、神田相生町、神田花岡町などの町名が、再開発の進んだ景観にはおよそ似つかわしくないながらも、それぞれ小さな町域を堅固に守っています。

正面に見えるJR総武線の高架下をくぐると、すぐに神田川を渡す和泉橋にさしかかりますが、その手前の交差点が「系統番号13番 その11」でご紹介した【秋葉原駅東口】です。【新宿駅前】からの13番が右手の万世橋方向から合流しました。21番の電車は、この先13番と併走しながら、終点の【水天宮前】へと向かいました。

*本文中の【 】は、電停名です。

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神田区詳細図(昭和16年)

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系統番号21番 その8

金杉通りと言問通りが交差する根岸1丁目交差点が、【坂本2丁目】です。言問通り上には昭和43年まで、上野公園から亀戸を経て今井までを結んだトロリーバス101系統が交差していました。電停は昭和40年に坂本の町名が消滅した後は、【下谷2丁目】と変わりました。

交差点から言問通りを東へ歩くと、右手に入谷鬼子母神が現れます。鬼子母神の名で広く知られていますが、正しくは眞源寺の境内で、「鬼」の字は上の点を省いて書くのが正しい表記です。「恐れいりや(入谷)の鬼子母神」ともいわれますが、これは大田蜀山人(南畝)の狂歌の一節で、後には「びっくりしたや(下谷)の広徳寺」「どうでありま(有馬)の水天宮」などと続きます。入谷鬼子母神の名物といえば、初夏の朝顔市でしょう。境内から言問通りは勿論、かつては都電の走る金杉通りにも露店が並び、夏の風物詩として東京を代表する光景のひとつともなりました。付近の植木屋が鑑賞用の朝顔を並べるようになったのは明治期からといわれ、市は周囲の宅地化により一時は衰退したものの、戦後の昭和25年頃から復活し、現在に至ります。

入谷鬼子母神に隣接するのは、旧坂本小学校で、校舎は大正15年築のものが現存しています。小学校としては平成8年に廃校となりましたが、本ブログでもいくつかご紹介してきた復興小学校のひとつとして、アーチ型の意匠が美しい玄関など、当時の独特のデザイン様式を今も見ることができます。

根岸1丁目交差点を直進すると、左手には上野郵便局、右手にはJR上野駅構内の留置線が寄り添い、やがて通りが左へ大きくカーブすると、昭和通りの北上野交差点に出ます。電車開業当初はまだ昭和通りの道筋は無く、軌道は上野駅方向へ直進する形で敷かれていましたが、震災後の昭和通りの開通に合わせ、線路が付け替えられました。

昭和通りに入ると、すぐに【下車坂町】です。下車坂町も昭和40年までの旧町名で、昭和通りの左右に町域がありました。古くは昭和通り西側の岩倉高校付近に、寛永寺から下る屏風坂があり、昭和通り経由に線路が付け替えられる前は、【屏風坂下】の電停もありました。屏風坂の北側にあったのが車坂で、どちらも明治16年の上野駅建設に伴って姿を消しました。町名消滅後、電停は【北上野1丁目】と変わりました。

都電の軌道が敷かれていた昭和通りの中央部分は、現在は首都高速1号線の高架下になっています。この区間の首都高の開通は昭和44年であり、21番の末期は首都高建設工事と重なり、その完成と入れ替わるようにして姿を消していきました。

*本文中の【 】は、電停名です。

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戦前の車坂付近

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系統番号21番 その7

三ノ輪交差点を過ぎると、日光街道は昭和通りと名を変えますが、21番の電車はこれを離れ、その西側に並行する金杉通りに入ります。上野方面へ向かうとすれば、昭和通りを直進するのが自然であり、あえて道幅の狭い金杉通りに入るのには違和感がありますが、明治期の電車開業当時はまだ現在の昭和通りの道筋は無く、日光街道裏道と呼ばれた金杉通りが、この付近のメインストリートだったことの名残でもあります。

金杉通りの周辺は、かつては「根岸の里」と呼ばれ、江戸期から文人墨客に親しまれた隠れ里のような街並みが見られました。下町としては震災や戦災を免れた貴重なエリアのひとつで、往時の田園風景こそ失われているものの、現在も随所に都電時代から変わらぬ昔ながらの商家や蔵、長屋などの建物が残り、私のような散歩者の目を楽しませてくれます。また、この付近は寺町でもあり、金杉通りから左右に路地を入れば、多くの寺院がひっそりと佇む景観を楽しむことができます。

金杉通りを直進した21番には、各交差点ごとに【金杉2丁目】【金杉仲通】【金杉1丁目】がありました。この付近は昭和12年に町名の統合があり、それ以前の電車路線図を見ると、電停はそれぞれ【金杉下町】【金杉上町】【坂本4丁目】となっていました。また、昭和40年の住居表示で金杉の町名が消滅すると、今度はそれぞれ【根岸5丁目】【下谷3丁目】【根岸4丁目】と変わりました。金杉の地名は古くからのもので、その由来も定かではないようですが、鎌倉期の記録に金曽木彦三郎という人物に因むとあるようで、「金曽木」の表記は現在も金曽木小学校などに見られます。

やがて柳通り交差点を過ぎると、金杉通り左手奥に小野照崎神社の境内が見えます。ここには、下谷富士と呼ばれる文政11年(1828)築造の巨大な富士塚が現存し、見る者を圧倒します。高さ約5メートルに及ぶ塚は、築造当時の原形をほぼそのまま残す貴重なもので、江戸期から続く毎年の山開きの行事は、現在も受け継がれています。

*本文中の【 】は、電停名です。

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金杉通り

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系統番号21番 その6

常磐線の高架をくぐると、日光街道左手の路地の向こうには浄閑寺が見えてきます。かつての新吉原遊郭に近いこの寺は、遊女らの投げ込み寺としての歴史があり、花又花酔の川柳に「生まれては苦界/死しては浄閑寺」とある他、遊女らの生活に深く関わり続けた永井荷風も幾度か足を運び、自らの墓をここに建てよと日記に記していたといわれます。現在は、昭和38年建立の荷風詩碑と筆塚を見ることができます。

この先、日光街道は台東区に入り、間もなく明治通りと交差する大関横丁交差点に出ます。明治通り上には、昭和43年までトロリーバス103、104系統が交差し、都電とともに繁華な交差点の主役として、路面交通全盛期の景観を作り出していました。

その少し先の三ノ輪交差点が、【三ノ輪車庫前】です。【三ノ輪橋】で折り返した31番がここから左へ分かれる国際通りに入り、蔵前方面へと向かいました。

日光街道右手に見える区立根岸図書館と、その裏手の都営東日暮里1丁目アパート一帯の敷地が、都電三ノ輪車庫の跡地です。車庫は大正2年の開設で、車庫前で二方向に分岐した21番と31番を管轄しました。日光街道から入庫すると、線路は一直線に敷地の奥へ伸び、街道の裏道を高架で越えて車庫に入るという、独特の構造になっていました。その高架下の通りが、ちょうど台東区と荒川区の境界であり、車庫が二つの区にまたがっていたことがわかります。細い道路を越えるだけとはいえ、都電の高架区間は珍しく、入庫待ちの電車が数珠つなぎになる高架上の光景がここでは見られました。図書館の脇を抜けて往時の高架部分跡地を見てみると、区境の通りを挟んだ左右の土地が、路面よりやや高くなっているのが確認できます。

*本文中の【 】は、電停名です。

DSCN5124
三ノ輪車庫への高架が道路を越えた跡地

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系統番号21番 その5

千住大橋を背に、日光街道をさらに進みます。間もなく右手には、天王様の愛称で親しまれる素盞雄神社の境内が見えてきます。延暦14年(795)創建といわれる古社で、疫病除けの天王祭で知られます。広い境内を歩いてみると、瑞光石を祀った社が目にとまります。祭神が翁の姿で降臨した奇岩と伝えられますが、瑞光の名になんとなく聞き覚えがあり地図を見ると、付近の小学校がことこどく「第○瑞光小学校」となっていることに気付きます。地元の伝承に因む学校名というのも、味わいがあります。

素盞雄神社前の交差点から左手の南千住駅方向へ分かれる通りを、コツ通りと呼びますが、これが旧日光街道の道筋です。千住南組と呼ばれた千住下宿がこのコツ通り沿いで、付近の小塚原の地名からコツの名があると思われますが、小塚原といえば江戸期の刑場と埋葬場でもあり、「骨」からの命名ともいわれます。

その先の南千住警察署入口交差点の少し手前が、【南千住6丁目】です。昭和初年頃までは通新町の町名があり、電停も開業当初は【通新町】でした。そして、昭和47年に閉鎖された東京スタジアムへの最寄り電停が、ここになります。日光街道の西側、現在は荒川区の総合スポーツセンターとなっている敷地一帯が、かつて大毎オリオンズの本拠地として下町の野球ファンで賑わったスタジアムの跡地です。

右手に円通寺や真正寺などを見ながらさらに進むと、正面に見える常磐線の高架の手前が、【三ノ輪橋】です。【都庁前】から来た31番がここで折り返し、21番とは次の【三ノ輪車庫前】までのひと区間を併走した他、後に一部が荒川線として存続する旧王子電軌の27番のターミナルが、街道の右手奥にありました。もちろん現在も、都電荒川線三ノ輪橋電停として健在です。

荒川線三ノ輪橋電停への入口となっている写真館の建物が、昭和2年竣工の王電ビルで、王子電軌が都電となった後も、しばらくは王電の社紋がビルに残されていました。ビルの一階をくり抜いた狭い通路を抜けると、その先に荒川線の乗り場があり、現在もこの周辺には古き良き都電全盛時代の香りが充満していますが、三ノ輪橋散策は27番をご紹介する際に改めて楽しむこととしましょう。

*本文中の【 】は、電停名です。

DSCN5123
旧王電ビル

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