オフト→ファルカン→加茂→岡田→ジーコ→オシム→岡田→ザッケローニ→アギーレ→ハリルホジッチ→西野→森保→森保

 森保一監督の続投は日本代表監督を3代連続、日本人が務めることを意味する。日本代表監督の座に就いた人物の系譜(上記)を見れば分かるとおり、1992年以降では初のケースだ。現在8年目に入った田嶋幸三会長の趣向と、その在位の長さが生んだ産物であることは確かながら、それに対する不満が世の中に渦巻いているわけでもない。日本人監督に慣らされた感がある。

 日本人監督と外国人監督。それぞれを色分けすることは、問題といえば問題だ。日本人監督はすべてレベルが低く、外国人監督ならばすべてオッケーというわけでもない。だがそれ以前に両者は平等な関係にない。候補となる監督の絶対数が違う。日本人の候補者がせいぜい4、5人であるのに対し、外国人監督には限りがない。

 日本人の候補はJリーグでそれなりに実績を残した人物になる。海外の上位国のリーグで、采配を振っている日本人監督はいない。選択肢はかなり限定される。「日本人監督で最も実績を残した監督」とは、田嶋会長が森保監督を推した理由だが、物差しは実際、他にいくつもない。理由は後からこしらえたと言われても仕方がない。

 単純にW杯で勝とうと思えば、外国人監督の方が確率は上がる。一方、優秀な外国人監督を招けば、日本人監督より年俸は高いので費用が嵩む。費用対効果が問われる。日本人監督を起用すれば、そのレベルアップに繋がるとの見方もできる。それぞれにはメリット、デメリットがある。

 それでも筆者が外国人監督を推す理由は哲学の有無と関係する。外国人監督が全員、哲学的な思考の持ち主かと言えばノーだ。だが、確率は日本人監督よりはるかに高い。別名、○○主義や○○イズムを全面に出しながら指導する日本人監督はごく僅かである。監督に求められている要素だという認識に欠けているからだ。日本のライセンス取得の講習現場で教えられていないテーマだと考えるのが自然である。

 筆者は欧州で、新監督の就任会見に幾度か立ち会った経験がある。ひな壇に座った監督は、そこでまず哲学を語るのが会見の習わしだった。それを素通りしようものなら、記者からすかさずチェックが入る。

 アギーレは日本代表監督就任会見で自ら「攻撃的サッカー」を口にした。ザッケローニ、ハリルホジッチの3人は、日本サッカー協会が攻撃的サッカーというコンセプトを掲げる中で招聘した監督なので、当然といえば当然である。しかし、攻撃的サッカーという決め台詞を、就任会見の場で開口一番、4-3-3という使用する布陣付きで示されると、欧州の会見現場を訪れたような、本場感を抱くことになる。日本サッカーの偏差値が大きく上昇した瞬間と言い換えることができる。

 だが、ハリルホジッチを経て西野さんが代表監督に就任すると、そうしたものは雲散霧消した。「状況に応じて3バック、4バックどちらでもできるようにしたい」。「本来システムは相手によって変えるもの」。攻撃的サッカーについても「極端なサッカー」と、時計の針を逆戻りさせるような表現をした。西野さんの後に就任した森保監督も、哲学を問われても「臨機応変」という言葉を返している。曖昧な台詞を吐いて、その場をやり過ごそうとした。

 その結果、カタールW杯本番では4-2-3-1で入りながら、試合の途中から5バックに変更。第3戦のスペイン戦、第4戦のクロアチア戦では頭から5バックで戦った。

 臨機応変を口にした森保監督にとって、あるいは西野前監督にとって、さらには大半の日本人監督にとって、これは普通のことかもしれない。だが、言っていることが途中で正反対なものに変わるわけだ。高い位置で守れ、プレスを掛けろと言っておきながら、途中から、後方に人数を多く割く布陣で守れと言われても、言葉に一貫性がないので説得力が生まれないのだ。

 繰り返すが西野さんは、信念を貫くことを「極端」と称した。それが日本人監督のスタンダードだとすれば、サッカー的な思考法とは言えない。

 Jリーグの日本人監督で例外を挙げるならば、川崎の鬼木達監督ぐらいではないだろうか。そうした監督の下で育った選手は、ライセンスの取得現場の体質が現状のままなら、臨機応変をスタンダードな思考法だと考えるだろう。このままでは哲学的な監督は、いつまでたっても育ってこない。

 哲学は立派なサッカー文化である。少なくとも世界のサッカー界の半分は哲学的な色に染まっている。そうした世界観が日本にはまだ伝わっていない。10%〜20%がいいところだろう。これを正常な値に引き上げようとすれば、臨機応変を是としない指導者に、外国人監督に任せるしか方法はない。