1962年、「大黒葡萄酒」に大きな変化が訪れる。年が明けてまもなく、「三楽」と「オーシャン」は合併し、「三楽オーシャン株式会社」と社名変更をする。「三楽」との合併前に、「大黒葡萄酒」は「オーシャン株式会社」と社名変更している。当時、「オーシャン・ウィスキー」を販売していた同社は、そのブランド名を前面に押し出し、それを社名としたのだ。ウィスキー事業は同社にとっての主軸となっていたであろうし、そのために1956年から軽井沢蒸留所の操業を始めている。
合併後の社名を「三楽オーシャン」としたのも、同社の進めて来たウィスキー事業がある程度の成果を収めていたからだろう。国内ウィスキー市場における「オーシャン・ウィスキー」は、既に広く認知されていた。合併後もウィスキー事業を同社のひとつの主軸事業にしようと思うなら、「オーシャン」の名をその看板から降ろすことはなかったはずだ。
一方、「三楽」にもウィスキー事業は存在した。合併直前の1961年に山梨に近代的な設備を有する蒸留所を新設している。だが、後にこの山梨蒸留所は軽井沢蒸留所に統合されることになる。同社の経営陣は山梨でのウィスキー生産に見切りを付けたということだ。会社の合併とともに、その合理化のために、設備の統廃合が行われること自体は一般的なことだろう。ただ、彼らの妥当な判断は軽井沢を生き残らせることを選択した。
さて、「三楽」が1935年の創業当時、その社名を「昭和醸造」と名乗ったことは前述した。そして、川崎に同社で初めての生産拠点を持ったことも。実は、同社は山梨に移転するまで、川崎で1958年からモルト・ウィスキーの生産を行っていた。そして、その川崎の設備を移設する形で山梨蒸留所は1961年にスタートしている。確かに、ウィスキーという商品を売るためには、ブランディングやイメージ戦略は重要になる。彼らは川崎を嫌ったのだろうか?
1960年代、川崎の街は「公害の街」としてその姿を現すようになる。「公害の街」として有名になりつつあった川崎には東京都との境に多摩川が流れる。川崎蒸留所はそれを水源としたのだろうか?やがて、大洋ホエールズとロッテ・オリオンズと、そして、ヴェルディ川崎にも逃げられた川崎。一足先に川崎蒸留所も山梨へと移転した。綺麗な水を求めたのだろうか?
川崎蒸留所は川崎が「公害の街」として有名になる前にモルト・ウィスキー製造部門を、山梨へと逃げ出させることに成功したようだ。「オーシャン」と合併する前の「三楽」にも、本気でウィスキー事業に乗り出そうとした時代があった。彼らの本気は川崎を捨てさせた。「三楽」のモルト・ウィスキーは川崎から始まり、山梨に移り、現在のそれは専用の貯蔵庫になっている。
ウィスキー事業という大海(オーシャン)にその船を出港させた「三楽」と「オーシャン」。合併してひとつの会社となった「三楽オーシャン」に、「軽井沢」と「山梨」(旧・川崎)という2つの船は必要なかった。「三楽の山梨」というその船は、「オーシャンの軽井沢」という名の船にすべての積荷を託し、自らの手によって沈められた。
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