特級・一級・二級の分類の確立は、日本のウィスキー市場に独自の発展のさせ方をした。当時のスコットランド人の感覚からしても、そして、現在の僕らの感覚からしても、「熟成をしないウィスキーを原酒として、しかも、それらを3%しか使用せずに瓶詰されたその飲み物をウィスキーと呼べる」その事実に違和感を持たざるを得ない。しかし、たとえ「二級」ではあっても、メーカーはその瓶詰された飲み物に「ウィスキー」と表記することができた。当時の日本の政府はそれを認めた。「ウィスキー」というキーワード自体に大きな訴求力があった時代であったのだ。
酒税法改正は、「模造ウィスキー」を日本の市場から切り捨てることに成功したが、「本格ウィスキー」はまだ、3%しか本物ではなかった。「3%で良いのなら…」、そう考えたメーカーもあったことだろう。原酒などほとんど使用しなくとも、香味や色調が類似していれば、堂々とラベルに「ウィスキー」と表記することが許可された時代である。法的には何も問題はない。そこは、熱いマーケットとなった。
そのような背景の中、いくつかのウィスキー・メーカーが二級ウィスキー市場に参入した。日本独自の「二級ウィスキー」市場は広がりを見せた。その事実は、その後の日本のウィスキー需要の拡大に大きな貢献をしたことだろう。しかし結果として、その当時の日本に、「本格ウィスキー」を溢れさせることとなる。
二級ウィスキー市場に参入したウィスキー・メーカー各社は、同様にその市場に参入した他社との熾烈な争いが始まる。すべては同じ「ウィスキー」。同業他社との差別化が望まれた。
「どのように勝ち残るか?」、それは、各社にとっての至上命題となったことだろう。そんな時代に「オーシャン・ウィスキー」は同業他社との格差を付けようと躍起になっていた。日本人が好奇心旺盛なだけではないことを知っていたのだろう。事実として、いくつかのウィスキー・メーカーはその後、その市場から退場している。当時、「香料や調味料を使用しない」ことを謳っていた「オーシャン・ウィスキー」にとって、急務となったのはその品質の向上であった。
さて、この時点でまだ軽井沢蒸留所は建設されていない。その当時の「オーシャン・ウィスキー」に必要とされたモルト原酒は、ニッカ、宝、東洋醸造、東京醸造からの買い付けで賄っていた様子だ。実のところ、「大黒葡萄酒」は長野県の塩尻にモルト・ウィスキーの製造設備を持っていたが、その生産は様々な要因で品質も安定しないまま断続的な状態であった。
自社製の原酒確保は「オーシャン・ウィスキー」にとっての最大の急務になりつつあった。ままならない塩尻に見切りをつけ、1955年に軽井沢蒸留所建設を着工、翌1956年に生産をスタートさせている。結果から言えば、その判断は正しかっただろう。やがて原酒は安定して供給されるようになり、その後の軽井沢は数々の賞を受賞するまでに至る。現在のキリン・ホールディングスにとっても、軽井沢のウィスキーは大きな資産でもあると思うのだが…。
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