卓抜した広告センスで、サントリーは市場を席巻した。輸入したブドウ酒に日本人の嗜好に合わせた各種甘味料を調合し、安全性と滋養の効能を謳うために医学博士からその権威を得て、有効な広告戦略でブランディングを確立し新たな市場を開拓する。現在のサントリーにも残る社風であろう。結果として同社は、「赤玉ポートワイン」の売上から莫大な利益を手に入れることになる。
「赤玉ポートワイン」によって実績と資金を得た鳥井信治郎にとって、その時点での「国産ウィスキー」市場は未知なるものであったはずだ。しかし、彼が夢見た未来(つまり山崎蒸留所)を手に入れたことは皆さんもご存知の通り。彼の先見性の正しさは、現在のサントリーの発展を見れば十分に証明される。
山崎蒸留所が建設される以前、一体彼の周囲のどれだけの人間が、現在の日本のウィスキー飲酒習慣の定着を想像できだろう。しかし、1923年に建設された山崎蒸留所は、1929年に初の国産本格ウィスキー「サントリーウィスキー白札」を発売するまでに、6年の歳月を要している。初のヒット作は「サントリーウィスキー12年」(現在の角瓶)、1937年のことだ。それは、山崎蒸留所の創業から数えれば14年。もしも、あなたが投資家なら、14年間利益を出さない事業をどう判断するだろう。
人々が酒を求め、愛し、それを愉しみたいと願う文化がなくならない限り、「国産ウィスキー」は必ず売れる。彼はそう未来を予見した。そして、ウィスキーという新しい商材をこの国に定着させて行ったのも事実だ。しかし、彼は同社のウィスキー事業をようやく軌道に乗せるのに、14年の歳月を必要としている。14年という歳月を支えたのは「赤玉ポートワイン」のカネであったのもまた事実だろう。
未知なる「国産ウィスキー」市場。それまで、国内で様々な形で酒造りに関わり、少なからず実績と資金のある者の多くが「国産ウィスキー」の将来に夢を見た。「次に来るのは何だ!?」、そんな時代にいくつかのメーカーがウィスキー事業に乗り出そうとした。多くの事業は計画のまま頓挫し、港を出た船もそのいくつかは、やがて海の底に沈んだ。ただ、それらのウィスキー・メーカーのほとんどは、「日本型ポートワイン」と呼ばれた日本産甘味ブドウ酒によってもたらされた利益と無縁ではない。かつて、鳥井信治郎がそうであったように。
「人気ブログランキング」。